ディスレクシアの少年
中学二年生の夏見翔は、読み書き困難、いわゆるディスレクシアという学習障がいを抱える少年。そのため学校の成績はいつも最下位だ。本人はそれをコンプレックスに思っているが、事情を知らない同級生たちは彼の読み間違いや言い間違いを天然ボケだと思い、好意的に受け止めている。『ぼくの守る星』はこの心優しい少年と、その両親や複雑な事情を持つ同級生たちの姿を描いた心温まる連作短編集。著者の神田茜さんは講談の真打として活躍しながら、小説家デビューを果たした女性だ。
「今までは講談のネタの延長で、自分と同世代の女性の話を書いてきたんです。でも今回は雑誌から短編の依頼を受けた時に、これまでとは視点を変えて少年の話にしようと思いました。それで書いたのが、第一章の翔くんが主人公の話でした」
その後、他の登場人物たちの話も読みたいと言われたことを機に、二年半をかけて話を膨らませ連作集に仕上げていったという。ディスレクシアの少年を主人公に選んだのは、
「実際に身近に読み書きが困難と診断された男の子がいたんです。本人は勉強のことで苦しんでいるけれども、いつもお友達のことばかり考えている性格のいい子だったので、その子のことを書いてみたいと思いました」
障がいをテーマに扱うのは非常にデリケートなことだと受け取られがちだが、
「最初は、失敗を笑いにかえてたくましく生きていく少年が出てくるユーモア小説にするつもりだったんです。感動的な話にするつもりはありませんでした。そもそもモデルとなった男の子自身、苦労はしているけれど周囲から人気があるし、人を笑わせることのできる、希望の持てる少年だったので、悲惨な感じはなかったんです。それに、映画監督のスピルバーグやトム・クルーズなど、ディスレクシアであることを公表している有名人はたくさんいる。自分のなかでは、読み書きは苦手でも他の部分で優れた才能を持つ人たちだというイメージがありました」
神田さん自身、学生時代は読み書きが苦手で漢字の偏とつくりを逆に書いたり、言葉を逆に読んでしまったりすることが多く、悩んでいたという。
「検査したわけではないので、ただ勉強ができなかっただけかもしれませんが(笑)。ただ、学校では人前で恥をかくことが怖くて、いつもびくびくしていました。翔くんがいつもびくびくしているのは、私の体験が反映されているのかもしれません」
個々に悩みを抱える家族、同級生たち
目立たないように振る舞いながらも、クラスにいる大人しい女の子・中島まほりを気遣ったり、お笑い芸人になろうとしつこく誘ってくる山上強志につきあったりと、他人を思いやる心は人一倍の翔が実に魅力的。彼について本人以上に心を痛めているのが、翔の母親だ。第二章では彼の障がいを知って新聞社を退職し、以来息子のために全力を注いできた彼女が主人公になる。夫は海外赴任中であり、頼れる人がいなくて自分で自分を追い込んでいるように見える彼女は、精神的にギリギリの状態だ。
「お母さんを書くのがいちばん辛かったですね。私自身子供がいるので、俯瞰して見ることができなくて。最初は子育ての愚痴ばかり書いてしまったので、何回も書き直しました。母親にとって子供は自分の分身。子供に障がいがあると自分の責任だと思ってしまうし、子供がいじめに遭うと自分がいじめられるよりも苦しくなるものなんです。読んだ方から“母親の気持ちがわかった”と言われて、ただのガミガミ言う親ではなく、この人にもいろんな背景があることが伝わってよかったと思いました」
母親は翔に何か他の特別な才能を見出そうと熱心だ。息子になんの配慮もしてくれない学校や教師への批判を繰り返して翔をうんざりさせている。卒業後の進路についても憂慮しているが、彼女がこだわるのは普通高校への進学だ。
「普通高校に通うか特別な学校に通うかで、その後の社会での生き方が大きく違う。親はやはり普通科に進ませたほうが可能性が広がると思うはず。翔くんのような子や、少しだけ耳が聞えないという子なら、少しの手助けさえあれば普通学校でやっていけますし」
実際、教育現場は今過渡期にあるという。
「障がいを持つ子をいかにフォローできるか、教師の能力の差がものすごくありますね。何もしない教師もいれば、耳の不自由な生徒のためにマイクを使って話す教師もいる。ただ、今は指導の仕方も変わってきていて、指導員が隣に座って筆談で授業内容を教えるといった試みをしている学校もある。徐々に変わってきているんですね」
第三章は同じクラスの山上強志が視点人物。
「山上くんは典型的な、傷つきやすい今時の中学生をイメージしています。周囲を見ていても、コンプレックスを抱えていて、ちょっとしたことでいじめられていると感じてしまう子が多いなと思っていたんです。山上くんの場合はお姉さんを亡くしているということ、お父さんが火葬場の職員ということのわだかまりもあります」
お笑い芸人になりたがるなど、表向きは明るく振る舞っている彼だが、
「お姉さんや父親のことで死後の世界のことを考えるようになって、人のために尽くさないと天国に行けないと思っている。お笑い芸人になれば人のためになる、と考えているんです」
〈生きることだけでこんなに大変なのに、世の中の役に立てなんて、じゃなきゃ天国に行けないなんて、神様はひどいよ。厳しすぎるよ。〉という彼の心のつぶやきは切実だ。
少年たちの会話が秀逸
その一方少年らしさも全開で、妊娠した母親のことを「なんかエロい」と言い出す山上に、翔が一生懸命考えて「エロいのはお父さんだよ、きっと」と返すあたりの会話は男の子たちの単純さと可愛らしさがたっぷり。
「うちの息子はまだエロについて考える年ではないんですが(笑)、まわりの男の子を見ているとこういう感じだなと思います。学校で助産師さんを呼んで講演してもらう授業があったんですが、何億もの精子のうちからたった一匹だけ卵子と結びついて生まれた奇跡の命だという話を、女子は泣きながら聞いていました。その一方で男の子たちは避妊のことばかり言われている(笑)。男の子たちは自分を神聖なものに思えないでしょうね」
また、翔の優しさに触れて強志が突然「俺の姉ちゃんになってよ」と言い出す場面では噴き出してしまう。
「一人っ子って家に帰った後はさみしいんですよね。兄妹がいればケンカもできるのに。何もできない。それで思わずああいう言葉が出てしまうというのが、男の子の単純さでしょうね」
女の子はまた違う。特に第三章の主人公、中島まほりは背負っているものが重い。父親と耳が不自由な弟は離れて北海道で暮らし、精神的な病を抱える母親と二人で生活している彼女は、クラスに友達もおらず、真剣に自殺してしまおうと考えている。
「中学生の女の子って大人ですよね。それに、まほりちゃんは多くのものを抱えすぎている。第一章を書いた時は、クラスでは何もしゃべらず、家に帰るとテレビもない部屋でひとり過ごしている女の子をイメージしただけでした。連作にする際に、自殺願望のある女の子にしようと思って。そういう子に、命の大切さに気づいてもらいたかったんです」
夏休み、父親と弟に会いに行ったら死のうと思っていた彼女だが、小さな出来事が重なるなかで、彼女の心に変化が生まれていく。やがて彼女は思い当たる。〈命って誰のものだろう。たぶんわたしだけのものじゃない。〉という言葉が胸を打つ。
「この章は何度も何度も書き直しました。ちょっと死ぬことが怖くなった、くらいまでを書くつもりだったけれど、“そうじゃない”“まだ足りない”と思えて仕方なかったんです。この章のタイトルにもある“はじまりの音”まで書いて、ようやくたどり着けたと感じました」
第四章では翔の父親が登場。新聞社のカイロの支局にいたが、翔が中学三年生になった現在は帰国している。しかし、家族との間には大きな隔たりができてしまっている様子。
「子供の障がいを認められないお父さんです。みんなで守ってあげようと考えるのではなく、本人が苦労して乗り越えないといけないという発想なので、一昔前の父親像かもしれませんね。これは雑誌掲載時のものとは少し内容を変えて、新たに書き下ろしました」
ここでは溝のできた夫婦が一緒に山に登るなかで、力を合わせねばならない状況に遭遇するわけだが、
「絆を深めていく話にしたかったんですが、書いていてどうにも現実的ではないな、と思えてしまって。山登りの間にお互いの違いがどんどんわかってきてしまう話になりました。子供のいる夫婦はいつまでも恋人同士の気分ではいられない。でも、妻がある提案をしたことで、希望が見えてくるんですよね」
そして最終章は再び翔の視点に戻る。
「最初の章から一年以上経って、中学卒業後の進路を決めなければならない時期にきています。先生から進学できる普通高校がないと言われたり、技術を身につける学校に行けと言われたりするなかで、翔くん自身もホームレスを見て将来の自分の姿のように感じたりしてしまう。でもそれと並行して、ある存在が心の支えになっていくんです」
そのことが、本書のタイトルにもつながっている。
「何のために生きるのか、何のために働くのかを悩んだ時、誰かを守りたいという気持ちは大きな力になる。誰かを守りたいからこそ、自分のことを守りたいと思うし、自分の命を大事にしたくなるんじゃないかと思いました」
誰かに守られることよりも、誰かを守りたいという能動的な気持ちが、人を強くさせる。それは翔だけではない。翔の両親も同級生たちも、誰かを思うからこそ、時に傷つき、時に挫けながらも明日を生きようとしている。だから息苦しさを抱える人々を描きながらも、本書は深い優しさに包まれており、温もりを感じさせる。
同時に、翔のような美点を持った少年の将来について、実社会でまだまだ考えねばならない課題が多いことも改めて実感させられる。
「今はまた学力重視の世の中になってきて、何でも競争になっている気がします。でも、いつも言っていることなんですが、人の弱みがわかる人が最強だとなれば、世の中がちょっと変わるのに。弱い人の立場がわかることが、いちばん大事なことなんじゃないかと思うんです。障がいのある子を隔離するのではなく、みんな一緒にいるようにしたほうが、どんなことで大変なのか、どういうことをしてあげればいいのかがわかるようになる。人の痛みがわかる人になると思う。そのためには学校の先生も指導員も増やさないといけないですね」
当初はユーモア小説のつもりで書き始めた本書。それが「感動した」という声が多数寄せられるような現在の内容になったのは、妥協せずに何度も何度も書き直してきたから。
「私は最初からプロットを組み立てることもできないし、天才肌でもない。登場人物の声を一生懸命聞きながら書いていると、なんとなく違う、何かが足りないと感じるので、何度も書き直して探していくしかないんです」
講談の創作と小説の執筆は、やはり大きく違う、と神田さん。
「講談の場合はすぐにお客さんの反応がわかるので、面白がってもらった部分を残して話を作っていける。小説の場合はすぐ反応があるわけではないので、じわじわと首を絞められているような……(笑)。ただ、小説のほうが一作の分量が多いですし、心の襞まで書きこめる。充実感はありますね」
現在は16歳の少女の話を執筆中。「48歳」という括りで書いた男女六編の連作もいずれ刊行する予定だ。
(文・取材/瀧井朝世) |