主人公は服飾デザイナーの女性
京都の、決して裕福とはいえない家庭で育ち、服飾の専門学校を卒業してデザイナーとなった瀬尾水樹。一度転職を経験したものの順調に仕事を続けてきたはずだった。しかし四十五歳になった今、会社に服飾業界から撤退すると彼女は告げられる。自由気ままも許される独り身とはいえ、今後の身の処し方に悩む水樹の胸をよぎるのは、幼い頃からの来し方、そして大切な人との思い出……。藤岡陽子さんの『手のひらの音符』は、一人の女性の半生と現在を丁寧に描き出す。最初に決めたのは服飾の仕事を書く、ということだったという。
「自分自身はまったく携わったことはないんですがたまたま、子供の同級生のお母さんと喋っていたら、旦那さんが失業中だという話になって。聞けば旦那さんも働いている実家の服飾の会社を閉めることになったそうなんです。彼女も以前はアパレルで働いていたらしくて」
海外の工場で低コストで作られる大量生産の安い服との競争も難しく、国内に染め粉がないなどの問題もあり、洋服を作っても赤字になってしまうという。
「これは服飾業界のことに限らない、今の日本社会のモノづくりのリアルだなと思いました。でも自分は何も知らなかった。同じように知らない読者もいるのではないかと思い、小説にしようと、その人に取材をしました」
今後の身の振り方に悩む水樹のもとに、一本の電話が入る。高校の同級生の憲吾からで、恩師の遠子先生の容態が悪いという。それをきっかけに再会したところ、憲吾は地元京都で西陣織の再起をはかろうとしていた。
「服飾業界のほかにもうひとつ書きたかったのが、西陣織の衰退を憂いて、その生地を使った新しい事業を立ち上げる人たちがいること。知り合いの旦那さんが取り組んでいたので取材させてもらいました。テレビや新聞で取り上げられて注目されても、すぐに安いコピー商品が出てくるなど、しんどい状況であるそうです」
服飾業界の現状や憲吾の活動については本書のなかで丁寧に触れられている。物語の本筋は水樹の人生。幼い頃から現在にいたるまでを振り返る形にしたのは、
「今四十代の女性がどのようにして仕事に就いて働いてきたのか、一人の人の長い時間を書きたかった。現在四十五歳という年齢設定にしたのは、バブル期をからめたかったから。バブルによって多少なりとも人生が変わった人はいる。水樹の場合は、高校を卒業したら働くのが当然という環境にいたのですが、バブルがあったからこそ、進学することができたんです」
そうして自分の天職を見つけて歩んできたのに、四十五歳にして職を失うかもしれないという状況は非常にきついものがある。
「情熱を傾けてやってきたことが、今の日本のシステムにあわなくて諦めざるを得ない。今、そういうことは現実にすごくある。水樹は独身の自由さはあるとはいえ新たな仕事に就くにはしんどい年齢でもあるし、妥協して後悔を抱えたまま転職しても、その先の人生は長すぎる。後悔を残さずに次の段階に向かうには、最善を尽くして自分自身を納得させるしかない。それにはどうしたらいいのかを考えていきました」
彼女の人物造形に関しては、
「今まで強い女の人を書くことが多かったので、今回は強くない人にしました(笑)。自分なんて、という劣等感や諦念を持って、自分の思いを通そうとはできない、控えめな人。そういう女性が時代の流れのなかで、少しずつ強くなっていく小説にしたかった。決して華やかで目立つわけでもない人ですが、そんな人にも彼女のことを考えて、わかってくれる人が傍にいた、ということも書きたかったですね」
彼女の現在に至るまで
彼女がどのようにして今の仕事に就いたのか。時代は遡り、幼い頃から現在に至るまでも語られる。水樹がかつて家族と住んでいた京都の団地の街は、藤岡さんの育った場所に重なる。
「もう二十年以上前のことになります。あの頃自分の周囲では、高校を卒業して働くことが珍しくなかった。よほど教育熱心な家庭に育った子でないと、大学には行かなかったんです。そうした、自分の周囲にあった平均的な豊かさの家の子を書こうかなと思いました」
彼女自身、高校に進学した時に驚いた記憶があるという。
「それまで公立の学校に通っていて、高校で私立に進学した時に、裕福な人たちがいることを知り、世の中には階層みたいなものがあるのか、と鮮烈に感じました。それまでは成績や学歴で周囲と競争することもなかったし、みんな上の層にいくこともそれほど望んでいなかった。そういう世界にいながらにして、水樹は自分の夢を叶えた。特殊な存在ではありますね」
一九六六年に建設された団地に住む水樹はタクシー運転手の父、パート勤めの母と兄との四人暮らし。同じ団地に住む森嶋家とは仲良し。そこには同い年の信也、優等生の長男・正浩、人の言うことをきかず“少し変わった子供”と見なされていた三男の悠人も暮らしている。両親が共働きのため、信也と悠人は親が帰ってくるまでの時間を瀬尾家で過ごしていた。
「子供も今ほど大事にされず、放ったらかしにされていたというか。子供同士でしょっちゅう誰かの家に行って過ごしていました。団地暮らしの様子については自分の見てきた環境なので、取材せずに書けました。水樹の母が人形の洋服づくりの内職をしている場面がありますが、それは私の近所に住んでいたおばさんがモデルです」
信也の弟の悠人については、
「時代を書くと決めた時に、発達障害の子供のことは出そうと思っていました。私が三十歳をすぎた頃からようやく学習障害、発達障害という言葉が出てきましたが、子供の頃はそういう子は“わけのわからない子”と見なされていて、家族が守るしかなかった。価値観がかわるまでの過渡期だったと思います。そこでつぶれていく子もいれば、いずれ特性をプラスに活かして生きていく子もいる。そういう事実を書きたかったんです。ここも発達障害を研究している先生に取材しました」
悠人のことを大らかに受け入れていた森嶋家、瀬尾家。そこには必ず親に代わって面倒を見てくれる正浩の姿があった。しかしある時から水樹と信也たちは、彼に頼る術を無くしてしまう。
「最後の保護者のような存在を失ってから、再生していく水樹と信也の姿が書きたかった」
あの頃、心細さのなかで家族のような絆と淡い恋心で結びついていた水樹と信也。だがその後彼らは離れ離れとなり、四十代となった今、水樹は信也がどこにいるのかすら知らない。
水樹が大人になってから再会する憲吾も、当時親しかった一人だ。帰国子女だった彼は当時から日本の文化に興味津々だった。
「私のなかで憲吾は、日本という国を外から見ている人、つまり外国人なんです。日本文化って最初に外国人に支持されて国内の評価が高まるケースも多い。モノづくりが衰退していくなかで、外から見て日本のすごさを知っているからこそ再生させたいという人を出したかった」
少年時代の彼もまた、母親の精神疾患という事情を抱えていた。彼はそれを背負って、母の面倒をみて生きてきたのだ。
「精神障害者の家族は、なかなかしんどさを外にアピールできない、というのは自分の看護師としての実感です。特に憲吾のような賢くてしっかりした子の場合、ぐれることもなく自分で全部引き受けてしまって限界にきてしまう。十代の頃の憲吾にとっては、それをわかってくれるのが信也でした。だから水樹と信也だけでなく、信也と憲吾の間にも絆があるんです」
人生における大切な出会い
過去のパートと現代のパートで重要な役割を担う人物がもう一人。水樹、憲吾、信也を温かく見守り、時に強引に進路についてアドバイスをくれた遠子先生だ。水樹が洋服に関心を持っていることに気づき、進学を諦めていた彼女や親に服飾専門学校に入学することを強く勧めたのは、ほかならぬ遠子先生だった。
「十代の頃背中を押してくれる人として登場させました。誰でも人生の岐路で誰かに出会うことはある。水樹もあのままだったら自分が何が好きなのかもわからず、人生こんなものか、と思って流れていったはず。でもひとつの出会いが彼女を変えていくんです。自分もあの時にあの人に出会えてよかった、という実感はあるし、多くの人がそうだと思う。水樹にとっては子供時代の遠子先生や信也との出会いがそうだったんです」
そう、信也との出会いも水樹には大きなものだった。
「彼らはいちばんしんどい時に一緒にいたわけですから、互いに忘れられない人になっている。でも、もう連絡をとらなくなった今、あえて相手を探すことってなかなかできないんですよね。私も会いたいなと思う人がいるけれど、今更私が強い気持ちを持って会いにいっても、向こうは懐かしんでもくれないかもしれない。そういう気持ちが連絡をとりにくくしますよね」
ただ、水樹と信也の場合、明らかにお互いに惹かれ合っていたのだ。水樹の中には今も信也がいるのではないか──。
「すごく好きになれる人って、人生でそんなに出会わない。私のまわりにも四十代の独身女性は多いですが、性格もバランスがとれているし愛される能力もあるのに独身の女性というのは、その人の心のなかにすごく好きな人がいて、その人を超える出会いがないからじゃないかな、と思うんです。しかも水樹の場合、相手と強い絆もあったんです」
タイトルにある「音符」は、作中に信也との思い出のなかで登場している。
「多くの人は、手のひらのなかに大事なものを持って生きている。それは好きなものであったり、家族であったり、仕事であったり、大事な言葉であったり。水樹にとってはそれが、子供時代にもらった“音符”なんです。それがあったからこそ、強い心を持ってここまでくることができたんです」
彼女は今後、どのような道を進むのか。ずっと心のなかにいる信也は今、どうしているのか。
四十代は折り返し地点
読後には、人はいくつになっても成長できるし、人生の新たな一歩を踏み出すことができる、という気持ちになれる。
「四十代という年齢を考えると、ちょうどマラソンの折り返し地点を過ぎる頃だと思うんです。それまでは先輩の背中を追って走ってきたけれど、折り返したら今度はこっちに向かってくる後輩に自分の姿を見せながら走ることになる。十代、二十代、三十代の女性たちが、四十歳をすぎてもこんなに頑張れるんだと思えるようにしたい。だからこそ、四十代の強さを書きたかった」
藤岡さんご自身もさまざまなことにチャレンジしてきた。新聞記者を経てアフリカに留学、帰国後は看護学校に入学。看護師として働きながら小説を執筆し、四十代目前で作家デビューを果たした。その間に結婚、出産、育児も経験しているのだから恐れ入る。
「私の場合は小説を書くという、情熱を注げるところを見つけたので楽でした。しんどいことが起きても小説があるから乗り越えられた。看護師の免許を取った時、これで小説が一生書けると思ったんです。生活費を稼ぐ手段ができたからこそ小説を書くという、好きなことができる、って。二十代くらいだと、仕事で好きなことができないと投げ出したくなる。でも、私くらいの年齢になると、やりたくないことでも、好きなことをするためにやろうと思える。考え方に幅ができるんです。今の四十代女性はタフなんですよ(笑)」
デビュー作『いつまでも白い羽根』は看護学校が舞台だったが、そのように自分の経験も小説に活かしていくつもりだ。
「医療にはメリットもデメリットもあるけれど、人はメリットしか見ようとしない、ということは感じていて。報道されにくい部分も含めて、両面を書いてみたいですね。今取り組んでいるのは助産師の話。今年中に刊行できたらなと思っています」
(文・取材/瀧井朝世) |