全寮制の学園の恐ろしい実態は
「前からこうした要素は作品に出していたんですが、本格ミステリ出身であることもあって、かなりコントロールして題材を選んでいました。でも、河出書房新社の担当者さんが“なんでもやっちゃいましょう!”と、解放してくださるタイプの方で(笑)、今回は社会派の小説として一般的な作り方をしてみました。つまり、社会問題について著者が訴えたいことがあり、それをどうストーリーにしてどう人物を配置してどういう文章でどういうふうに描写するか、という流れで考えていきました」
と、似鳥鶏さん。新作『一〇一教室』の舞台となるのはカリスマ教育者、松田美昭が作った全寮制の私立恭心学園。高い進学実績を誇り、「引きこもりが直った」「反抗期の息子が驚くほど素直になった」などと保護者からも評判を集める学校だ。
大学院で経済学を専攻する拓也は、恭心学園に通う高校生の従弟が学校で心臓麻痺を起こして死亡したという知らせを受ける。健康だった彼がなぜ? 葬儀で久々に再会した従妹、沙雪からも同様の疑問を投げかけられ、二人は学園について調べ始める。一方、恭心学園の高等部の小川希理人と山口唯香という二人の生徒の日常も描かれ、読者にはこの学園の内部が少しずつ明かされていく。
「私は教育学部出身で、一時期学童保育で働いていたので教育には関心があります。日本の小中学校は生徒を画一的に押し込めるところがあるのが気になっています。同調圧力が非常に強く、場の空気を読んでみんなに合わせなければいけない。突出した能力を持っていても、出しちゃいけないし、いじめられても訴えてはいけない。揉め事を起こすな、というわけです」
同調圧力といえばそれだけでなく、
「たとえば少し前に“クラス全員が逆上がりできるようになりました”と手放しで喜ぶのはどうか、と話題になっていましたよね。全員が逆上がりできるようになる必要性がどれだけあるのか。もしも生徒に片腕のない子がいて、その子が“全員逆上がりできました”と言えないのはお前のせいだと言われ、一生懸命頑張って片腕だけでできるようになったとしたら、周囲はそれを感動ドラマに仕立て上げるでしょうけれど、その子にとっては暴力です。全体に合わせるのが大変な子を、無理やり合わすように抑圧してきたという部分が学校教育にはあります。しかも、トラブルを解決することよりも、トラブルがないことが100点満点、という学校の考え方にはなじめませんでした。学校教育のやり方を見直してほしいんです」
長年関心があったテーマに真正面から取り組むこととなった本作。
「はっきり申し上げておきたいのは、これは特定の学校をモデルにしたわけではないということですね。松田に代表されるような考え方を持つ人間が自由に学校を運営したらどうなるだろう、と考えました。どこまでファンタジーにするかは悩みどころであったんですが、社会問題にされないレベルでここまでなら学校の中であり得るだろうというのを計算はしました」
タイトルは、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』から。作中にも教師たちに目をつけられた生徒が連れていかれる部屋として象徴的に登場するが、
「最初はあのような管理社会を現代の日本で書こうとしていたんです。もう少し現実に合わせることにして書き換えたのですが、タイトルはその名残です」
現実に合わせたのには、ある思いがある。
「今回、これを書くにあたって、暴力というもののひとつの実例を見せることで、対処や予防の指針にもなるといいなと思っていました。自分が加害者になりかねない時に気づけるし、第三者が“これは暴力だ”と気づいて助けてあげる判断になる。助け方の参考になるようにもしたかった。そのために暴力を振るう者と振るわれる者の心理はこうだ、ということをちゃんと書いておきたかったんです」
カリスマ教育者の主張とは
拓也たちの章の合間に、松田美昭が自身の教育理念を語るインタビュー文が挿入されていく。戦前までの日本人の心を取り戻さねばならないと説き、体罰やいじめも容認する言葉がどれも強烈だ。
「松田という男が語る考え方を実際に持っている人たちはいます。そういう人が教育に口を出したら、こういう学校でこういうことが起きるよ、というところを考えていきました」
学園で生徒が詠唱させられる「五戒」がある。〈一、私たちは社会のルールを遵守し、違反するものには、毅然とした態度で臨みます。〉〈一、私たちは自分の利益よりも社会全体のことを考え、行きすぎた個人主義を憎みます。〉〈一、私たちは親に感謝し、先生方に感謝し、社会に感謝し、与えて頂いた日々の生活を喜びます。〉等々。まるで戦時中の軍隊の規律のようだが、
「軍隊は全体に奉仕するのが仕事なので、こうした規律が必要とされている。でも、生徒たちは軍人ではないですよね。必要性がないところにこうした規律を押しつけても、理不尽さしか残らない」
いじめは社会に必要だ、という松田の主張にもぞっとするものがある。
「パワハラをする人間やブラック企業の経営者がよく言うことでもあります。でも、いじめる側からこういう意見はよく聞くけれど、いじめられた側から聞いたことなんてない。いじめる側が自分を正当化するために言っているだけです」
よく“いじめられる側にも問題がある”という言い方もされるが、問題があっても、だからといっていじめていいわけがない。
「お金を騙し取られた時に、騙される方が悪いといって騙し取った側が責められなかったらおかしいですよね。騙す側が悪いに決まっている。そうした論理のすり替えによって、本人も周囲も判断できなくなっていく。また、なぜ人は他人をいじめるのかというと、人をいたぶるにしろマウンティングするにしろ、そうした行為は自分の優位性が確認できるから楽しいんです。だから人は弱い者をいじめてしまう。その点もよく認識しておいたほうがいいと思います」
大切なのは両者の心理を知ること
全寮制の恭心学園はガードも固く、拓也たちは周辺の人々に話を聞くうちに体罰があったことを確信するものの、なかなか実態は見えてこない。一方、死んだ拓也の従弟と同じく柔道部に所属している希理人は、厳しい指導者に逆らえずにいる。希理人の章は、体罰の現場が生々しく浮かび上がってくる。
「学校のスポーツ活動での体罰も多いですよね。いったん指導する側と指導される側という関係になると、暴力でも強制わいせつでも、“熱意があっただけで行き過ぎただけ”ですまされてしまう。それはなぜかというと、必ず“私が子どもの頃はもっとひどかったけれど、それに耐えてきた”という人が出てくるから。俺が苦労したんだからお前らも耐えろ、というわけです。また、スポーツ界で成功した人間ほど、自分の受けてきた指導が間違っていたとは言いたくない。だから正当化するんです。指導はよかったけれど暴力はあった、というように分けて考えることができない。一緒くたにしてしまうから、多少の暴力は必要だ、という考え方になってしまう。そういう構造があることをもう少し自覚したほうがいいのでは」
だから、たとえば体に触ってはいけない、近い距離から怒鳴ってはいけないなどと、細かな決まり事を作っても事態は改善されない。
「問題はもっと根底にある。それはセクハラやパワハラにもいえます。個別の発言や表現を“これはセクハラだ”と決めて避けたとしても、根本的にセクハラはなくならない。それどころか本来セクハラにならない部分でもセクハラといわれて暮らしにくくなることもある。根底にある考え方そのものがずれているのに、そこに着目しないからです」
また、被害者が子どもの場合、なかなか問題が表面化しないという現実もある。
「子どもの場合、親が味方してくれないとダメで、親が敵にまわってしまうと表沙汰にならない。実際にこれよりひどいことがあってもおかしくないぞというつもりで書いていました。普通に考えれば明らかに殺人未遂なのに、“いきすぎたしつけ”で片づけられてしまうのは恐ろしいなと思っています」
日本人には「まあ相手も悪気がなかったのだから」とうやむやにして事をおさめようとする傾向があるのも確か。しかし似鳥さんは、
「嫌いな言葉は“けんか両成敗”(笑)。悪いほうが100%悪い、と思います。なのにそうやって“お互い様”のように言って、周囲は親身になってくれないことが多い。うやむやにしようとする人には、あなたが被害にあった時に助けがないってことですよ、と言いたい。同調圧力というのは、揉め事を起こさないために泣き寝入りしろ、ということなんです。息苦しさをおぼえている人、被害にあって自殺を考えている人は今の日本にたくさんいると思うので、今の中高生、小学生にもこれを読んでもらえたら」
恐ろしいのは、希理人が実際に体罰を受ける場面。物理的に痛めつけられるだけでなく、「自分は甘ったれです」「自分は無能です」、さらに「ありがとうございます」「自分は先生方に感謝しています」と連呼させられ、次第に理性的な判断能力が奪われていくのだ。
「立場の強い者から弱い者への暴力についてわりと誤解されている方は多いのですが、強い者がいたぶる時って、“お前のためにやっている”と言いながらやるんです。被害者は次第に“それなのに駄目な自分がいけないんだ”と思い始める。暴力を振るう側もやはり相手から捨て身の反撃をされるのは怖いですから、反抗心を奪ってしまうわけですね。弱い者は洗脳されてしまうんです。それはパワハラやDVの現場でも同じ。反抗心を摘まれることが一番重要な問題なのに、そこがあまり認知されていないように感じていたので、抑圧と洗脳のプロセスはちゃんと書いておきたかった。だからこの部分は特に頑張りました」
そして終盤、読者は松田のインタビューに関してある事実に気づかされる。それはぞっとするような現実だ。
「この部分ではある種のホラーになっていますね。こうした一連の問題で一番怖いのは、ひどいことをやった人間がまた教育の場に戻ってくることです」
すべての生徒たちに
もしも今、閉鎖的な空間の中で、いじめや体罰にあっている生徒がいるとしたら、どうすればよいか。
「自分がいる狭い社会のルールではなく、日本の一般社会のルールに照らしあわせてみること。モノを壊されたり落書きされたりしたら、それは器物損壊罪で、賠償の対象になる。もちろん暴力は傷害罪になる。警察に告訴して公にするのが一番いいんです」
周囲の大人が動いてくれればいいが、
「まともに取り扱ってくれない親や、それこそ揉め事を起こすなという親だった場合、担任や学年主任や校長先生があてにならない場合は、“もっと偉い人”に訴えることを考える。教育委員会、文部科学大臣、それに法務省の擁護局もあります」
子どもがそこまで行動するのは相当な勇気が要るはずだ。やはり大人の第三者が気づいてあげるのが理想的だろう。だから、本書に書かれてあることは、すべての人に関係する。
「かつて生徒だったすべての人と、今生徒であるすべての人に読んでいただけたら嬉しい」
(文・取材/瀧井朝世) |