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青山七恵さん『めぐり糸』現実にあるかもしれないと信じたくなるような特殊な関係を、この小説で書けないかなと思いました。
青山七恵さん
2005年に「窓の灯」で文藝賞を受賞してデビュー、2007年に「ひとり日和」で芥川賞を受賞し、09年には「かけら」で川端康成文学賞を受賞した青山七恵さん。さまざまな作風の小説を発表するなか、最新作『めぐり糸』は彼女にとってこれまででいちばん長い小説となった。東京・九段の花街に育った少女と身よりのない少年の長年にわたる数奇な運命が描かれる力作だ。
青山七恵(あおやま・ななえ)1983年埼玉県生まれ。筑波大学図書館情報専門学群卒業。2005年「窓の灯」で文藝賞を受賞してデビュー。07年「ひとり日和」で芥川賞受賞。09年「かけら」で川端康成文学賞受賞。著書に『やさしいため息』『お別れの音』『わたしの彼氏』『あかりの湖畔』『花嫁』『すみれ』『快楽』などがある。

1945年に生まれた女性の半生

 東京・九段の花街。終戦の年に生まれた〈わたし〉は、置屋から芸者を呼ぶ料亭「八重」の女将である母のもとで育つ。将来自分も芸者になり、そののちに「八重」を継ぐことを夢見て唄と踊りの練習に励む日々。そんな彼女に運命の出会いが待っていた。九段の置屋「鶴ノ家」に、いつのまにか住んでいた出自の分からぬ少年、哲治だ。〈わたし〉は小学二年生の時に彼の存在に気づき、やがてその無口な少年に対し、恋愛とも友情ともつかない一体感を抱くようになっていく。戦後から現代にいたるまでの時間のなかで絡まり合う一組の男女の人生を描きだす『めぐり糸』は、青山七恵さんにとってこれまででいちばん長い小説となった。

「具体的な枚数の目標を決めていたわけではないのですが、気づいたら千枚ほどになっていました。2009年頃に雑誌連載のご依頼をいただいた時、長い小説を書くからには自分の知らないもの、知らない時代について取り組んだほうが想像力を使って力いっぱい書けるのではないかと思ったんです。ちょうどその時に新聞でどこかの温泉街の置屋がなくなったという記事を読んで置屋というものをはじめて知り、小説になるのではないかと思って。今思うと、よくそういうことで題材を選びましたよね(笑)。考え始めたのが27歳くらいだったので、20代最後のエネルギッシュな感じが私にもあったんだなと思います」

 そこから三味線の先生や浅草の料亭、当時の九段を知っている人物などに取材、さまざまな文献や映像にもあたった。ただし、主人公自身は花街の芸者になるわけではない。彼女の人生はその後、予想外のうねりを見せる。

「花街の世界のことは、ある程度距離を保った外部的な視点に立ったほうが、書いている私と同じ立場から見ることができると思いました。それに、もともと舞台としてそういう街を選んだだけであって、自分が本当に書きたいと思ったのはすごく長い時間のなかでの誰かと誰かの繋がり。二人の人間がどうやって出会って、どういうふうに繋がり合っていくのかを少しずつ考えていきたかった」

 つまりそれは、〈わたし〉と哲治の関係だ。

「この話を書きはじめた頃は気づいていなかったんですが、その後何冊か別の本を出した時に何度か言われたのが“青山さんはいつも二人の人物の関係性を書いているんですね”ということ。意識しないうちに、そうしたテーマを選んでいたようで、自分はそこから離れられないのだなと、今わかってきたところです。この本もそういう興味から生まれてきたのだなと思いました」

不可思議な絆で結びつく少女と少年

 今回描かれる関係性は、一言では言い表しがたい。幼い頃から寡黙な哲治はあまり自己主張をせず、〈わたし〉が一方的に彼に近づいているという印象があるが、そんな〈わたし〉は女学校時代に別の男と恋に落ち、その秘密を哲治にだけ打ち明け、卒業と同時に結婚する。二人は離れ離れとなるのだ。その後も哲治は彼女の人生に再び登場するが、すんなりと男女として結ばれるわけではない。

「一筋縄ではいかない関係に興味があります。この作品に関しては『嵐が丘』みたいなものが書けないかなという気持ちもありました。心惹かれて何回も読み返してきましたが、好きというのとはまた違う気がする。ヒースクリフとキャサリンの関係に憧れるんです」

 親が連れてきた出自の分からない少年、ヒースクリフと、その家の娘キャサリン。二人は一緒に育ち互いに惹かれ合うものの、キャサリンは上流階級に憧れて他の男と結婚してしまう。失意のなか姿を消したヒースクリフは時を経て富豪となって再び姿を現し、キャサリンをはじめ自分に辛くあたった人々に復讐を企てる。そんな愛憎まじりあった男女の関係に憧れるというのは、意外な気も。

「恋愛という感じでもなく、怒りや諦めや憎しみといったいろんな感情がまじりあって、お互いにお互いが忘れられない存在になっている。現実にはないだろうと思いつつ、あるかもしれないと信じたくなるような関係です。それで、自分なりの特殊な関係というものを今回の小説で書けないかなと思いました」

 キャサリンが“ヒースクリフは自分だ”と言うように、〈わたし〉も「哲治は……わたしなのよ」と言う場面がある。

「全然違う人間だけれども、“自分以上に自分”だという関係に憧れるのかもしれません。私も今まで生きてきた中で、もしかしてキャサリンが言っていたのはこういうことなのかな、とうっすら思える一瞬が何度かありました。きっと、今後もそう思える一瞬を追い求めていくんだと思う」

内面が見えてこない相手

 本作品では二人が心を通じ合っている様子は希薄で、〈わたし〉が一方的に哲治を必要としているように見える。もともと〈わたし〉がこういう関係を求めていたのか、それとも哲治に備わっている何かが彼女をそうさせたのか。

「それは両方あると思います。哲治は喋らないし、存在しないような存在。想像上の人なんじゃないかと思うくらいですよね。でも離れ離れになることで、主人公にとっての哲治の存在はどんどん大きくなっていく。つねにアンバランスな関係です。イーブンな関係でも続くことはあると思いますが、あまりにアンバランスな関係はそれが逆に力となって、関係の持続性を支える気がします」

 別々の道を歩んでいるようで、まさに糸のように何度も絡まり合う〈わたし〉と哲治の人生。

「目の前から消えたと思っていてもまた現れる。波がひいてもざーっと返してくるような感じを出したかった。タイトルも、いろんな糸が絡まり合っている様子を想像してつけたもの。芸者の世界を描いているので、三味線の糸というイメージもありました」

 ヒースクリフは富豪となって戻ってくるが、大人になった哲治はそうではない。相変わらず無口な彼は、自分のことは多くを語らず、〈わたし〉に対してもそっけない。

「ヒースクリフは大人になってからはわりと饒舌なので、そこも違いますね(笑)。哲治については主人公の目を通してしか書けないので、実際どういう人間だったのかはわからない、ブラックボックスのようなところがあります」

 そんな彼が、意外にも〈わたし〉を追ってくるシーンがある。

「作者としてもほっとする場面でした。書きながら、哲治にはごく普通の人間であってほしいと思っていました。根は自分たちと同じなんだってことを信じたかった」

 この関係は、どうすれば成就するといえるのか。どうすれば二人は満たされるのか。

「幸せとか不幸せといった価値でははかれない関係が書けたらいいなと思っていました。昔に比べて今は自由になったとはいえ、夫婦や親子の絆はやはり根強く神聖視されるところがあります。でもこの世の中にはそれ以外の関係のあり方、人一人の人生を丸ごと変えてしまうような強いつながりもあるということも信じたい。せめて、小説のなかでそういうものが成就すればいいなと思いました。書き手としても、この二人の関係が理解しづらいものであることは分かっていますが、自分がヒースクリフとキャサリンに憧れたように、この二人に憧れる人がいてくれたら嬉しいです」

 オビには「愛の物語」という言葉もある。この不可思議な関係も、やはり愛といってよいものなのか。

「私のなかでは“愛”の範囲が広くて、何もかも“愛”なんです。個人と個人の間にあるものはやっぱり“愛”だと思う」

いちばん苦労したのは輸入バナナ

 ところで『嵐が丘』といえば家政婦のネリーが主人公の男に過去を語る形式となっているが、本書も列車の中で一人の女性がもう一人の女性に自分の半生を語って聞かせる形となっている。これは意識して踏襲したものなのか。

「確かにそうなんですが、『嵐が丘』のほうはネリーの語りだけでなく、時々聞き手である主人公が出てきたり、手紙が挿入されたりと工夫がなされていますよね。私も一人の女性がただ語るスタイルだと途中で飽きるから何か違う形式を取り入れるだろうと思いながら書き進めていったのですが、そのままで書ききってしまいました(笑)」

 ただ、本人が自らの半生を振り返る形の本書では、感情の動きも丁寧に語られ、また時代ごとの風俗や女性の生き方なども興味深く読めるところも魅力。

「当時はどういう時代だったのかも、もちろん調べました。細部は本当っぽくても全体としてはありえない話になるようにイメージしていました。ありえないようなものなのに、ありうるものだと信じられるような小説にしたいと思っていました」

〈わたし〉の人生は順風満帆とはいかない。夫の会社はエクアドル産のバナナの輸入に携わっていたが台湾産バナナに押されて赤字を出してしまう。家に帰ってこない夫を待ちながら、食品会社の経理課の仕事に加え荒木町のバーで雑用の仕事もこなし献身的に働き、親たちに借りたお金を少しずつ返済する主人公。

「ここまで調べて書くというのは今回がはじめてでした。実はいちばん大変だったのはバナナに関する部分。何年に何が輸入されたのかといった細かいところまで調べたわりには、作品には書かなかったことが辛いです(笑)。主人公たちの子供時代のことは調べるのは非常に楽しかったのですが、その情報にひきずられると、どれくらい事実に忠実に書けるかということにとらわれてしまう。参考にしつつ無視する按配が難しかったです」

 事前にプロットを密に組み立てるわけではなく、人物像も書き進めていくうちに根付いていく感覚があるという。本作では少しずつ、親子たちの確執も浮かび上がってくるわけだが、

「この作品では母娘三代を出すことによって、時の流れを感じられたら、と思いました。それぞれに確執がありますが、誰が悪いわけでもなく、素直になれなかっただけという気もします。父親の影が薄くなっているのは、他の作品でもわりとあるので、どうも自分自身の癖のようですね(笑)。ただ、主人公が学校を卒業する頃まではそうした周囲の人や風俗のことを意識して書きましたが、その後は彼女が何を考えているのか、内面を書くことにシフトしていきました。哲治と一緒にいた小さい頃は内と外が分離していなかったのに、哲治の不在によって外側に興味が持てなくなって、彼女の輪郭が硬くなっていくというイメージでした」

 その後、〈わたし〉の人生は思いもよらぬ道を辿っていく。そして彼女はどうなったのか。物語は再び、婦人が自分の半生を語る列車の中の場面へと戻っていく。

密かな“裏世界文学”シリーズ計画

 ところで、ヴェネチアを舞台に二組の日本人夫婦の数日間を描いた前作『快楽』は、大岡昇平の『武蔵野夫人』にインスパイアされた部分があったという。今回は『嵐が丘』の影響があるということは……。

「実は、いわないと誰にも分からないと思うんですが、私のなかに“裏世界文学”シリーズがあるんです。去年『文藝』の秋季号に載せた『風』という短編はアメリカのフラナリー・オコナーの小説に影響を受けたもの。次はどういう作品を書くかはまだ分かりません。ただ、形式や文体は違っても、同じように人と人との特別な関係について書いていくように思います。今回この長編を書いてみて、諦めのような、覚悟のものようなものが生まれた気がします」

 

(文・取材/瀧井朝世)
 

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