女大名がいたという一文に驚き
江戸時代にたった一人、女性の大名が存在したという。八戸南部氏の当主だった夫を亡くした後、みずから当主となった清心尼。大国である南部宗家の叔父の、遠野への国替えという理不尽な要請にも理性的に対応した人物だ。その波瀾万丈の人生を語るのは、一頭の羚羊──ではなく、その角である。中島京子さん初の歴史長篇『かたづの!』は、史実をベースにファンタスティックな要素を取り入れた愉快痛快な物語。まずはなぜ時代小説に挑戦したのか、そのきっかけが気になるところだ。
「以前、江戸時代の遠野に女大名がいたという一文を雑誌で見つけたんです。それが2008年か09年頃だったのですが、以来ずっと頭にひっかかっていて。女の大名が実在したなんて漫画の設定のようで、信じがたいですよね」
当時は、時代小説を書くことを現実的に考えていたわけではなかった。
「いつかは書くかもしれないという気持ちはありましたが、歴史小説を読みこんできたわけではないし、レキジョでもなかったですし。その女の大名のことは、誰か歴史に詳しい女性作家が書けばいいんじゃないかしら、って思っていました(笑)」
ただ、女大名がいたことは担当の女性編集者に話したという。
「2010年の夏に直木賞を受賞してバタバタが続いて、一息ついた秋くらいにその編集者から、遠野に行ってみませんか、と誘われたんです。せっかくなので旅行気分で行くことにして、タクシーでカッパ淵やでんでら野を回っていたら、途中で清心尼のお墓を見つけたんです。いわゆる墓地のような場所ではなく、山肌にぽつりとありました。お墓参りまでしたのでいつかは自分がこの人のことを書くのかな、とは考えて資料も見るようになりましたが、実際に描くのはずっと先のことだと思っていました」
気持ちが大きく変わったのは、2011年の震災の後だ。
「遠野は海からは離れていますが、海岸部につながる重要な道が通っている場所で、自衛隊やボランティアのキャンプがあると聞いたんです。それもあって、その年の11月に遠野や八戸に行くことにしました」
その際には、さまざまな資料も集まった。慶長の時代に三陸を大津波が襲ったという事実を詳しく知ったことも、著者の心を動かした。
「三陸の大津波のことを知った時は、大きなショックを受けました。小説の中には自然災害についてはそれほど書きこんではいませんが、この時代の人たちも同じような体験をしたんだということは、この小説を書くきっかけのひとつでもありました」
ある日の午後に訪れた遠野の高清水の展望台からは、通常は早朝しか見えないという、雲海から浮かび上がる遠野の町を見ることもできた。
「それはそれは神秘的な光景でした。この土地にさまざまな困難に立ち向かった女の人がいたんだ、ということだけでも人に知らせる意味がある、時代小説を書くのはまだ無理だなんて言っていないで、自分だって女性の作家なんだから書けばいい、という気がしてきて。それで次に書く作品はこれにすると決めて、そこから1年かけて調べて2012年の暮れあたりから書き始めたんです」
調べれば調べるほど、清心尼に魅力を感じるようになったという。
「凛として立派な人なんです。女大名ということに興味を持っただけだったんですが、資料にあたっていくうちに、この人すごくない? という気持ちが強くなって。だんだん自分自身が清心尼に心酔していく感覚がありました」
女大名に寄り添う一本の角
語り手は先述の通り、一本の角である。慶長5年(1600年)、清心尼がまだ祢々と呼ばれていた15歳の頃、彼女は山の中で角を一本しか持たない雄の羚羊と出会う。一人と一匹は親交を深め、やがて羚羊が寿命を迎えた後、切り取られたその角が家宝として残される。その「片角」が本書の語り手なのだ。視点が悩み苦しむ人間のものではないため適度な距離感が生まれ、シリアスにもウエットにもなりすぎない、諧謔味のある語り口が絶妙。なにより、夫を亡くし子供を亡くし、多くの困難に直面しながら生きた清心尼の人生をずっと見守り続け、時には人に乗り移って声を発してまで助けようとした存在がいた、という設定にぐっとくる。
「語り手はどうしようか迷っていたんです。歴史小説の“天保○○年の年も暮れようとしていた。あかね空の向こうには……”みたいな文章で私が一冊書き通すのは無理だなと思って(笑)。それに、資料を読んでいるとお家騒動や揉め事、誰がいつ死んだといった陰惨な事柄が多くて暗い気持ちになってしまう。それをどのように書けばいいのかと考えていた時に、遠野に片角伝説があることを知ったんです」
明治期まで、遠野には年に一度の祭りで「片角ご開帳」という、神様である天龍の角が人間を叱る儀式があったという。
「後世になってその角は羚羊の角だったと分かったそうなんです。その記述を読んだ瞬間、私の頭の中で羚羊が元気にトコトコと走り始めました。神様にされてしまった角を語り手にすれば、私なりの歴史小説が書けそうだと思いました。フランスの有名なタペストリーの〈貴婦人と一角獣〉も浮かびましたね。あの図柄を女領主と一本角の羚羊にして、河童や猿など他の動物を配置して、日本版〈貴婦人と一角獣〉のイメージが立ち上がっていきました」
昨年、このタペストリーが日本で展示される催しがあったが、その時にはすでに連載はスタートしていたわけで、「もらったわ、って思いましたね(笑)」と中島さん。
後の清心尼である祢々は、「戦でいちばん重要なのは、戦をやらないことです」という。戦をするなら「負けぬ、が肝要」とも。女領主となって国を率いる身となった後も、その姿勢を貫いていく。
「南部宗家から理不尽なことをされるたび、家臣たちは熱くなって戦だと息巻くのですが、それを一人ひとり説得して、彼女はつねに誰も血を流さない、無駄死にさせない選択をしていく。江戸時代といっても関ヶ原の合戦から十数年しか経っていない。揉め事が起きた時には武力に訴えることはあり得る選択肢だったと思う。そんな時代に、戦にならない道を選んでいく」
理性的な人だと思う、と中島さん。
「平和がいいわ、といったほわんとした理想主義ではないんですよね。男の人たちが言う八戸のために死んでもいい、という言葉は美しく聞こえますが、実際にそうなると城のなかに臓物が飛び散ることになる。武士の誇りを守るとか切腹だのというのは抽象的。平和主義は一般論では現実的でないと非難されがちだけれども、ひとり残らず死ねば何も残らないといって、違う道を選ぶ清心尼はすごく地に足のついたリアリストだと思う。私はあまり男性女性に違いがあると考えるほうではありませんが、ただ、清心尼という人が考えた現実主義は、やはりある意味、命を生み出す人の発想なのかなという気もしています」
遠野への国替えを強制された時も、彼女が戦よりも国を移ることを決断し、みなを説得した記録が残っているという。しかしあまりに理不尽な状況に悔しがる家臣たちの気持ちも分からなくはない。
「誇りやプライドも大切ですよね。屈辱的な目に遭い続けて生きていくと自分自身がボロボロになってしまう。でも、だからといって戦争を選ぶのはどうか。清心尼が守らなければいけないのは小さい領地ですが、対する南部宗家は大国。大きな国と同じ論理で同じ戦い方をしても負けるに決まっている。どちらかがボロボロになるしかない勝負を避けて、第三の道を選んだのが清心尼。最終的に彼女と叔父さんの対決を見ると、好き放題した叔父さんが勝ったようでいて、清心尼も負けたようには見えないんです。本当の意味で自分たちを守る戦いをして、負けなかった。そこがすごいところですよね」
実際、八戸側からは遠くに追いやられたというイメージはあるかもしれないが、遠野の記録を見ると、彼女が立派な大名だったと記録されているという。
「移った後、結局は満足した人が多かったんでしょうね。彼女は遠野で起きた揉め事を遠野で解決するよう裁判権を譲らずに自分の領地の独立を守ったり、家の中のことは女性に裁量権があるという箆持ち制を作ったりもした。箆持ち制は今の社会にスライドさせることは難しいですが、そうした制度があったせいか、遠野には女の人を大事にする気運があるそうです。清心尼の孫も尼になった後は女性たちの駆け込み寺を作って、理不尽な目に遭っている嫁がいると婚家に交渉に行って里に帰らせたりしている。最近、女性大臣が離婚禁止法に言及したとかで、ネットで『江戸時代か!』というコメントを見かけましたが、その江戸時代に離婚を成立させていたんです。清心尼たちの家系のDNAはすごい(笑)。現代の私たちに理解できる思考回路を持っていた人たちだったんですよね」
読めば読むほど、現代社会に対するさまざまなメッセージを感じる本書。
「私自身が今の現実というものを感じながら資料を読んでいるので、そういう部分に強く反応しているということはあります。でも、それだけに、人間の紛争の種って変わらないんだなと思いました。生まれ育った土地を去る決断の辛さや、元からその土地にいた人と後から来た人との関係の難しさなど、今世界で起こっている対立の種が、こんなに狭い八戸や遠野という場所に全部あったということに驚きます」
まるで中島さんが今このタイミングを狙って発表したようにも思えてくるが、
「むしろ私としては、途中から清心尼が私のところに来て“お前でいいから今すぐ書け!”と言っているようで。彼女に書かされている気分でした(笑)」
陰で活躍している河童たち
さて、人間たちの政が描かれる一方で、片角はもちろん、河童や猿、屏風に描かれたぺりかんなど、動物や不思議な生き物たちもにぎやかに登場するのが本書の魅力。八戸の河童の大将、川辺孝之進が清心尼に懸想するが、
「遠野といえば河童。でも八戸の櫛引八幡にも河童誕生の話があるんです。それなら河童たちも清心尼たちと一緒に八戸から遠野に移ったことにしようと考えました。川辺孝之進という名前にしたのは、井上ひさしさんの『新釈遠野物語』に収録されている話に出てくる河童が川辺孝太郎というんです。それで、私の中では河童といえば川辺家なんです」
この河童たちも意外な変遷を辿っていく。祢々子という河童については中島さんのフィクションだと思ったら、
「調べているうちに、利根川を支配した祢々子という河童がいたという話を見つけたんです。清心尼と同じ名前だわと思って、鳥肌が立ちました。普段は連載中に先の話を編集者に伝えることはしないのですが、あまりのことに思わず話したら、編集者も“それ絶対河童の大将が名前をつけたんですよ”って(笑)。後から知ったのですが、河童好きなら知っている有名な存在らしいですね」
そんな偶然も重なって、世界が広がっていったこの歴史ファンタジー。全体を俯瞰する目と細部への注意力と、ユーモアセンスを持った中島さんだからこそ書けたといえそう。この9月に短篇集『妻が椎茸だったころ』で泉鏡花賞受賞の知らせを受け取ったばかりでもあるが、
「装丁の雰囲気は『かたづの!』とはずいぶん違いますが、この世ならざるものが出てくる話であることは共通していますね。『エルニーニョ』を書いたあたりから土地の伝説や幽霊譚などが小説のなかに入ってきたりするようになりました。自分の書きたいことが変化した結果かもしれないし、以前の部分も保ちつつ、また違うグループが出てきたということかもしれません。いずれにせよ『かたづの!』は突出して他とは違う小説になりましたね(笑)」
(文・取材/瀧井朝世) |