小説家と秘書、そして内弟子
新人賞を受賞して作家デビューを果たしたものの伸び悩んでいた國崎真実は、担当編集の鏡味氏に言われてジュニア小説の女王、森和木ホリーの内弟子になることに。「錦船」シリーズで一世を風靡したホリー先生はご年配で、お屋敷でひっそり暮らしている。世話をしているのは通いの秘書、宇城圭子で、実は彼女も密かにものを書いている──「書く」ことにこだわりを持つ三人の女性の視点が交互に現れる長編『あなたの本当の人生は』。著者の大島真寿美さんは本書のオビに「この奇妙な小説に、私は、私の、新しい景色を見せてもらいました。」と記している。
いつも頭に浮かんだ「小説の種」を言語化していくような作業で小説を執筆している大島さん。
「最初に頭に浮かんだのは、白い部屋だったんです。そこで誰かに“あなたの本当の人生は”って言われているというイメージ……いえ、イメージよりももっとぼんやりしたものがありました。作家の話を書くなんて思いませんでした」
それが今回の「小説の種」。「最初の四行くらいは分からないまま書いていますね」という、その出だしはこちら。
〈この小説を書いたのはわたし? それともあなた?/あなたはだあれ?/わたしはだあれ?/だれかおしえてくれないかしら?〉
「試しに書いたような文章ですが、消さないほうがいいような気がしたんですよね」
という文章が、あとで意外な効果を持つことになってくる。
「その後、國崎真実ちゃんを出したあたりから次の文章が出てくるようになりましたが、それでもホリー先生がどういう人かなんてことはまだ分かっていませんでした。結局、三人の視点から書くことになった時には、ややこしいことになったなと思って(笑)。それが連載の第一回でしたね」
生きることが書くこととなった森和木ホリー。書きたくて密かに書いている宇城圭子。書くことにつまずいている國崎真実。創作についての向き合い方が異なる三人だが、
「今、言われてはじめてそうなのかと思いました(笑)。自分ではまったく、誰がどう、ということは考えていませんでした。それぞれのなかに、自分の何かが投影されているとは思いますが、誰がどういう人であれ、普段は同じ家で暮らすことのないような人たちが一緒にいて、反発もするし闘いもするという、その間に流れている目に見えないものを書いていたいんだと思います」
書くことと向き合った小説
本書は、やはり書くことについて考えさせられる部分も多い。例えば、ホリー先生の心の言葉。
〈ただ書く。書くってそういうことでしょう。〉あるいは、
〈なんにせよ物語るという行為とその欲望には際限がない。〉〈書きはじめたら最後、そのしっぽを追いかけ、追いかけ、どこまでも追いかけ、がけの切っ先へ踏み出してしまう。こんな恐ろしいことをどうして始めてしまったのだろうと気づいた時にはもう遅い。〉
「一度は“書くこと”について書きたかったんだと思う。私自身が毎日毎日やっていることなので、自分の意識の中にも溜まっているものがあったと思います。それを言語化してこなかったから分からなかったけれど、今回すごく整理できた気がします」
どういうことが整理できたのか、と訊くと、しばし言葉を濁す大島さん。
「こういうことを言うと大げさになってしまってすごく嫌なんですけれど……。自分は死ぬまで書くなーって思ったんです。書くことへの覚悟や、自分にとって書くことの意味を改めて考えられたというか。だから、これは個人的な小説になっている部分があるんです。すごいことを言っているつもりはないんですけれど、こうして人に喋ると大げさに聞こえるので、自分でも引くわって思いながら今、言ってます(笑)」
また、宇城さんがホリー先生になりきって書いた文章について、先生が〈あんな気の抜けたもの〉と一蹴する場面も印象に残る。
「あのあたりは、命を持つ文章と命を持たない文章とがある気がしていて、そのことを考えたかったんです。小説って文字を連ねただけのものなのに、でも命を持ってしまったりするでしょう? そういうことを知りたかったから書いた……ような気がします」
自然に組み立てられていった物語世界
傍若無人な編集者の鏡味氏や、ホリー先生の昔の夫である簑嶋氏など、男性たちもいい味を添えている。ただし女性三人の関係性がどのように変化していくのかはまったく予想がつかない。それは大島さん自身が、プロットを作らずに、探るようにして書き進めていったからだろう。
自然に浮かんでくるものを登場させた結果、物語にとって必然となったものもたくさんある。それがどれも、とてもユニーク。
例えば、國崎真実がホリー先生に自身の著作「錦船」シリーズに登場する猫にちなんでチャーチルというあだ名をつけられることもごく自然に決まったというが、結果的に彼女と書くことの関係性を象徴することとなっている。また、彼女がコロッケを揚げるのが得意であることも、
「途中でコロッケが出てくる気がしたんです。自分では予知したのかと思いましたが、知人に自分で書いている小説なのだから予知ではない、とはっきり言われました(笑)。ただ、どういうわけか途中からコロッケがとても重要な食べ物になってしまって、読み終えてコロッケが食べたくなった、という人が多くて。コロッケに物語を乗っ取られました(笑)」
また、「錦船」シリーズの詩も当初、何度も引用する気はなかったが「何かが正しくない気がする」と感じて何度も書き直したのだという。最終的には、重要な場面で幾度か引用されることになった。この架空のジュニア小説を実際に読みたいという声も多々あるようだが、
「次は錦船のシリーズを書いてくださいという恐ろしい無茶ぶりをされたりもしますが、自分の中ではここに書いた部分以外の物語はまとまっていないんです。読んだ人それぞれが、昔読んだ児童文学の気配を感じ取ってもらえたら、と思いながら書いたものなので」
ちなみに最初に浮かんだ「小説の種」である白い部屋というのは、先生の屋敷の中の一室として登場する。執筆に行き詰まった時に先生が“藁にもすがる思いで”籠る部屋であるため、藁部屋と呼ばれている。
「最初はプラスチックのツルツルしたイメージだったんですが、物語の要請によって違う雰囲気の部屋になりました。白い部屋に籠ったからといってアイデアが浮かぶなんてことはないんじゃないか、とツッコミを入れながらも、物語を進めることを優先して書きました。私の意見はこの物語に必要とされていないなって感じていたので」
また、物語の中で何度も繰り返されるタイトルの言葉についても、
「しつこいかなと思いつつも、どうしてもこの言葉を書かないと次に進めない場面が何度もありました。でも、この言葉の意味についてはあまり深くは考えていませんでしたね」
著者は考えていないというがその分、登場人物たちがじっくり考えている。そして、彼女たちの人生について考えるうちに、読者は自分の本当の人生とは何なのか、と思いを馳せることになる。
最初の四行が持つ意味
では、小説の終点はどのようにとらえたのだろう。不思議な巡り合わせを辿った末に迎える結末は、明るく清々しいが、
「編集者にはもっと長くなりそうですねと言われたんですが、自分はなんというか、(軽快な口調で)カラカラカラッと終わりたくて」
カラカラカラッ……?
「うーん。カラカラカラッとしか言いようがないですね(笑)。きゅっと締まって終わりにしたいとは思っていました」
確かに読めば、この擬音の感覚は伝わってくる。登場人物それぞれのその後について語っていると、「この本はあの人が書いた本かもよ?」と、一人の名前を挙げる大島さん。なるほど! と膝を打ったところに、また意外な話が。
「友達が長い感想を送ってくれたんですが、“こうして感想を書いているうちに、自分の感想は、この本の最初の四行だと思えてきた”とあったんです」
先述の〈この小説を書いたのはわたし?〉に始まる部分である。
「その感想を読んで、ああって思いました。そういう読み方になると、また別の次元が見えてきますよね。私は、これは登場人物のあの人が書いた物語かもしれないと思っていましたが、そのひとつ上の段階の解釈もあるんですね。読者があの四行を書いたのは自分だと感じたということは、この小説を書いたのは自分かもしれないという感覚を持ったということですよね。その読み方にはすごくびっくりしました」
虚構の現実と現実の虚構
大島さんの話をうかがっていると、著者が物語を生み出すのではなく、どこかに存在していた物語が著者に書かせた、というような印象を持つ。
「世界を創っている時って、何を書いて何を書かないか、世界のほうが判断する感じがある。少なくとも、自分の意見を押し通そうとするものではないですよね、物語って。例えば藁部屋にいちいちケチつけるより、もっと大事なことがありますし(笑)」
まるで、著者と物語の共同作業であるような作品。かつては、小説執筆に関しては、あるイメージが自分の中にあったという。
「デビューしたての頃にエッセイにも書いた覚えがあるんですが、昔は“光の図書館”というものを考えていました。そこには本がたくさんあって、私はその本を作っているのかな、という感覚があったんです。意味不明ですよね(笑)。でもそれは自分の中で実感していたこと。ただ、最近はそんなにはっきりしたものでもない気がしていて。もうちょっと滲み出る感じのものになっていますね」
それはどういうことかというと、
「小説の中にもリアルはあるし、現実の中にも虚構はたくさんある。小説とは何かを考えていると、どうしてもそれらの関係について考えてしまうわけです。最近は、現実と小説の境目が分からなくなってきている気がします。小説は小説の中だけで完結しているということもなく、現実にも浸みだしてきているんじゃないか、という変なことを考えているんです。あちらとこちらがあわいの中で重なり合っている感覚がある。小説も、もうちょっとこっち側から干渉できるものなんじゃないかなという気がしていますね」
友人が届けてくれた感想は、まさに現実と虚構の境目がなくなるような体験だったのだろう。
ご本人も本書のオビに〈これを書いたことで何かが変わったような気がします〉と記しているが、
「なんでも小説に書けるんじゃないか、という気持ちになりました。こっち側とあっち側の干渉度合いって、思ったよりも強いというか、すぐ越えられるというか。現実と虚構の間にある川の幅が狭まったかのよう。今回この小説を書いている間って、獣道しかない山を登っている感覚だったんですが、獣道だけでも頂上に辿りつけると分かった今、何でも言語化できるような気がしています」
この本はご自身にとっても、ひとつの節目になった、という大島さん。
「どういう節目なのかは謎ですが(笑)。でもこのタイミングだったんだろうな、と思います。若い時だったら、こういう感じには書いていなかったはず。二十年くらい、書くことと向かい合ってきた年月分の蓄積があって、出てきたものが、この小説なんだなと思っています」
(文・取材/瀧井朝世) |