ワクサカソウヘイ「アリクイと同じアリの夢を見たい」#最終回

ワクサカソウヘイ「アリクイと同じアリの夢を見たい」最終回
 文筆家・ワクサカソウヘイさんは衝動を抑えることができない。ヌーと一緒に大移動をしたいし、カバと添い寝だってしたい。どんなに困難でも、彼らに近づき、彼らのことをもっと知りたいと願い続ける。これは、ひとりの「人間」と、あまたの「野生の生き物」たちとの逢瀬の日々を綴ったエッセイ連載です。時には海や砂漠で、また時にはジャングルやサバンナで繰り広げられる、少しストレンジな密会の行方は……?

 野生動物と向き合う時、いつも決まって露わになるものがある。それは、自分という存在の、頼りなさである。彼らの圧倒的な存在感を前にすると、私という人間の輪郭は、途端に曖昧になり、希薄になり、やがて透けていくような感覚に襲われる。
 カバは、ただそこにカバとして在るだけで、轟音のような佇まいを示す。ヒョウは、ただ木の上で食事をしているだけで、神々しい風格を漂わせる。ひるがえって、私はどうだ。何者でもない。取るに足らない、猫背の霊長類だ。薬局で「ポイントカードはお持ちですか」と聞かれても財布の中を探すのが面倒で「ないです」と嘘をつき、カップ焼きそばの湯切りをしている最中にシンクが「ボコン」と鳴る音を聞いて体をビクッとさせ、迷惑メールフォルダに届いた「八億円当選しました」という件名を見て一秒だけ夢を見てしまうだけの、吹けば飛ぶようなホモ・サピエンスだ。
 私はなぜ、野生動物との邂逅を求めているのか。たぶん、ただ動物の姿を見たいからではない。野生という鏡を通して、消え入りそうな自分自身の輪郭を、必死になって確かめているのだ。おい、私はここにいるぞ、いるんだぞ。そうやって、野生に向かって、そして自分自身に向かって、確認作業を行っているのである。
 私は、あらゆる生き物を愛している。百獣の王であるライオンも、森の主であるヘラジカも、海中を漂う軟体のタコやイカも。
 そして、路上を這いつくばる、名もなき虫たちも。
 彼らは皆、「自分は何者なのか」なんていう億劫な自問自答をすることなく、ただその生きとし生ける日々を全うしている。その迷いのない潔さが、羨ましい。

 小学生の頃。
 学校の昼休み、級友たちがドッジボールやサッカーを楽しんでいる輪に入れず、私は校庭の隅にひとりでしゃがみ込み、じっと地面を見つめる日々を送っていた。視線の先にいたのは、アリだった。黒く、小さな、無数の点。彼らは列をなし、触角を触れ合わせ、巨大な獲物をせっせと運んでいる。その様子を飽きもせずに観察しながら、彼らに対して勝手な友情を寄せている自分がいた。
 アリの世界には、人間とは違って、「個」の孤独がないように見えた。一匹のアリは、微力だ。指先で簡単に潰せてしまう。しかし、彼らは群れ全体でひとつの生き物のように機能している。誰かが餌を見つければ、仲間が集まってくる。誰かが匂いを残せば、仲間は道に迷わない。それは実に強かな姿である。そして私はそんなアリたちを見ながら、ひとつの真理めいたものを発見した気になっていた。ただし、語彙や理屈をまだ持っていない小学生だ。その発見を言葉によって説明することは、難しかった。
 大人になったいまであれば、あの時に得た感覚を言葉にすることができる。それは「自立とは、自分ひとりの力で生きていくことではない。百人の仲間に、ちょっとずつ依存することなのだ」というものである。
 私はアリになりたかった。たったひとりで、この世界から仲間外れにされているような息苦しさに耐えるのではなく、誰かと触角を触れ合わせ、孤独を感じずに生きたかった。ただ、自分の生きている世界は、アリの巣のようにはできていない。昼休みに広がる社会は、もっと複雑で、もっと残酷なコロニーだ。私は校庭の隅で、ただアリを眺め続けていた。

 中学生になると、事態はさらに悪化した。
 友達がいないどころか、私はクラスの中で「透明人間」のような存在になっていた。
 休み時間、教室の喧騒の中で、私だけが真空パックされたかのように音のない世界にいる。誰とも目が合わない。誰からも話しかけられない。
「もしかして、自分は死んでいるのではないか……?」
 本気でそう思った。映画『シックス・センス』状態である。自分からは世界が見えているけれど、世界からは自分が見えていない。私は、存在していないに等しかった。
 ところが、中学二年の体育祭。私はそこで、自身の存在を露わにする事件を起こす。
 秋晴れの空の下、校庭に整列している全校生徒たち。開会式の最中である。体育教師の長い話が続き、生徒たちは退屈しきって、空を見上げたり、足元の砂を運動靴のつま先でいじったりしていた。
 その時、私の頭上で、異変が起きた。
 ……ブーン、ブーン、ブーン。
 かすかな、羽音がしている。
 見上げると、私の頭の上に、黒い柱が立っていた。得体の知れない、小さな羽虫の集合体。「頭虫(あたまむし)」と俗に呼ばれる、あの現象である。
 なぜか、私の頭の上にだけ、数十、いや数百の虫たちが集結し、竜巻のように渦を巻いているのだ。
「……おい、あれ見ろよ」
 近くにいた同級生たちがざわめき始めた。
 なんだあれ、ヤバいじゃん。おいおい、どうなってるんだよ。なんであいつだけ、虫にたかられちゃってるんだよ。
 クスクスという笑い声が、さざ波のように広がっていく。私は顔を真っ赤にして、うつむいた。やめてくれ。見ないでくれ。普段は誰も私を見ないくせに、なんでこんな時だけ注目するんだ。
 しかし、悲劇はそこで終わらなかった。
 虫の柱に呼び寄せられたのか、はたまた偶然なのか。どこからともなく一匹のオオカマキリが飛来し、あろうことか私の頭頂部に着地したのである。
 おいおい、今度はあいつの頭の上に、カマキリが来たよ。両の鎌を突き上げてるよ。なんだよ、あれ。
 爆笑が起きた。影の薄い中学生と虫。それは、ぶりと大根のように、相性がいい。そこにいる生徒全員の視線が、私とカマキリに釘付けになった。
 私は泣きそうになりながら、じたばたと体を動かして、カマキリを頭から振りほどき、また頭虫の柱から逃げ惑った。その様子が滑稽だったのだろう、爆笑はさらに大きな波を打った。初めてこんなに人から注目され、気恥ずかしさで爆発しそうだったが、しかし同時に、こんなことを思った。
 ああ、自分はいま、存在している。強烈に、存在している。
 そう、確かに私は、そこにいた。透明人間であったはずの私は、輪郭を与えられ、同級生たちの視線を浴び、世界の中心にはっきりと存在していた。
 虫の力によるものではあったが、その経験は、私に教訓を植え付けた。「存在するためには、アクションが重要である」という教訓だ。
 黙っていてはダメだ。じっとしていては透明になるだけだ。虫を集めるでもいいし、体を動かすでもいい。とにかく外部に向かって何かアピールをしなければ、私は世界から消去されてしまう。そうだ。存在とはつまり、注目を集めるということなのだ。

 二十代の頃の私は、とにかく目立つ人になろうと躍起になっていた。何者かになれば自ずと注目されるはずだと、文章を書き、舞台を作り、イベントを企画した。誘われる飲み会には必ず顔を出し、SNSで毎日のようにポストをして、奇抜な服を着て街を歩いた。
 私はここにいます! 見てください! 面白いでしょう! 変でしょう! だから私を無視しないで!
 全身からそんなアピールを発信し続けていた。それはまるで、遭難者がモールス信号を激しく叩きながら、遠方の人々に存在を示し続けるような、切実な営みだった。
 そうしているうちに、私は作家を名乗るようになって、少しは何者かになった気もしていた。仕事に追われるようになり、アクションを忙しなく続けていた。それは、それなりに充実している日々だった。
 しかし、ふとした瞬間に、不安に襲われることがあった。
「本当のお前は、何者でもないんじゃないか?」
 そんな声が、どこからか聞こえてくる。私は頭を振って、違う、大丈夫だ、自分は存在している、自分はいま確かに、何者かとしてここに存在している、と自らに言い聞かせる。それでも、自分など本当は空っぽなのではないか、という不安は、完全に拭うことはできなかった。
 そんな時期、妙なことに気がついた。
 どうも自分、蚊に刺されにくいのである。
 夏場、友人たちと公園で酒を飲んでいても、周りは「痒い、痒い」と騒いでいるのに、私だけが刺されていない。O型だし、汗かきだし、酒も飲んでいる。蚊に好かれる条件は揃っているはずなのだが。思い返せば、大人になってからは蚊に刺された記憶が、ほとんどない。中学の体育祭では、あれだけ頭の上に虫を集めていたというのに。
 ある時、一匹の蚊が腕に止まるのが見えた。「お、ついに刺すか?」と、私は期待を込めて、その挙動を凝視した。しかし、蚊は針を刺すことなく、ただ私の腕の上を散歩したのち、プイッと飛び去ってしまった。
 たったそれだけのことに、なんだか地味なショックを覚えた。もしかして、蚊には私が「見えていない」のか……?
「存在の解像度が低すぎて、認識できないぜ」
 そんな蚊の捨て台詞が聞こえた気がした。私は蚊にとって、何者でもないのだ。
 そんな妄想が、時折訪れる不安と重なった。必死にアクションを続けているつもりでも、一皮めくれば、私という存在など無でしかない。自分は蚊にも無視されるくらいに、薄っぺらな存在なのだ。
 焦りがたぎっていく。もっと、激しく動き続けなければ。もっともっと、存在の輪郭を濃くしなければ。もっともっともっと、世界の視線をこっちに集めなければ。
 そうやってアクセルを限界まで踏み込んだ結果、ついにエンジンが焼き切れた。

 三十代に入ってすぐの頃、私は倒れてしまった。
 熱が出たわけでも、怪我をしたわけでもない。しかし、身体が鉛のように重く、布団から起き上がれない。思考にはモヤがかかり、一行の文章も書けなくなった。なにもできない、なにもしたくない。ああ、強制終了だ。
 私は仕事をすべてキャンセルし、東京の住まいを引き払い、親類の住む山陰地方の家に身を寄せることになった。東京の街は情報に溢れていて、療養するには向いていない。体調の回復を待つなら、自然に囲まれた場所がいいだろう。そういう判断だった。
 古い日本家屋。六畳一間の和室で、私は一日中、天井の木目を眺めながら過ごした。
 終わったな。そう思った。無職になった。あんなに必死に積み上げてきた何者かとしての自分は、あっけなく崩れ去った。何も生み出すことのできなくなった私は、誰の耳目も集めることのできなくなってしまった私は、もう存在していないも同然だった。人はこんなにも簡単に、何者でもなくなってしまうのか。静かな絶望が、胸を満たしていった。
 窓の外からは、カエルの鳴き声と、木々を揺らす風の音だけが聞こえる。ここでは、誰も私を見ていない。頭の上にカマキリを載せても、誰も笑ってはくれない。透明だ。自分は透明になってしまったのだ。
 そんな日々の、ある夜のこと。
 どうしても眠れなくて、私はふらりと外に出た。
 街灯ひとつない、漆黒の闇。雲に覆われ、星は見えない。足元の感覚だけを頼りに、近所の小川沿いを歩いていく。まとわりつく、湿気を含んだ初夏の空気。鼻をつく、蒸されたような草の匂い。
 ふと、闇の奥に、淡い光が見えた。ひとつ、ふたつ。いや、もっと。目を凝らすと、川辺の草むらが、無数の光で埋め尽くされていた。
 ホタルだ。
 それは、この世のものとは思えぬ景色だった。儚くて、それでいて確かな意思を感じさせる光。そんな黄緑色の粒が、音もなく舞い、草葉を灯し、川面を滑っていく。私は息を呑み、その場に立ち尽くした。
 美しい、と思った。ぼうっと、ただその光景を眺め続けた。
 ふと、あることに気づく。
 ホタルは、ずっと光っているわけではない。点いては、消える。消えては、また点く。一定のリズムで、明滅を繰り返している。ゆっくりと、絶え間なく、点滅を。

 ホタルは、求愛のために、あるいは敵への警告のために光ると言われている。つまり、あれは彼らにとっての、アピールだ。自己の存在を世界に示すための、アクションだ。
 なのに、彼らはその光を、断続的に灯している。光をずっと出力し続けているわけではない。光を消す時間、つまり「滅」の時間を、必ず挟んでいる。
 なぜだろう。ずっと光っていたほうが、目立つのではないか。存在を強く誇示できるのではないか。私は暗闇の中で、ホタルのリズムに合わせて呼吸をしながら、その点滅について思いを巡らせた。吸って、吐いて。点いて、消えて。また点いて、また消えて。
 あ、もしかして。
 ずっと光っていたら、それは「光」として認識されなくなるからだろうか。
 たとえば満月が、私たちの頭の上で延々と光っていたらどうだろう。きっと私たちは満月の美しさを忘れ、満月を満月として認識しなくなるだろう。それはただの景色となり、意識の外へと追いやられるはずだ。
 発信がずっと続くと、それは存在していないことと同じになってしまうのだ。
 だからこそ、満ち欠けがある。
 闇があるから、光がある。滅があるから、点が際立つ。
 滅がなければ、点は存在できない。
 そうか、私は、間違っていたのだ。すとんと、胸の奥に落ちるものがあった。
 存在するということは、常に注目を浴びることだと思っていた。休むことなく、止まることなく、周囲に信号を送り続けることだと信じていた。だから私は、眠る時間を惜しみ、何もしない時間を恐れ、常に何者かであろうと足搔いていた。でも、それは不自然なことだったのだ。
 いま、ホタルが教えてくれている。存在とは、点滅することなのだと。
 光る時もあれば、消える時もある。うつつの中で息をする時もあれば、夢の中で泥のように眠る時もある。誰かに注目される時もあれば、誰からも忘れ去られる時もある。
 その両方の揺らぎがあって初めて、私たちという生き物は、存在の輪郭を獲得するのではないか。

 完全に滅していたとしても。無職で、誰も見ていないところに引きこもり、光を失っていたとしても。これは終わりではない。次に点くための、滅びなのだ。
 闇の中にいたとしても。なにもせずに寝ていたとしても。それは、恥ずべきことでも、恐ろしいことでもない。ただ、点滅のリズムに揺らいでいるだけ。ただ、それだけのことなのだ。ただ、私は存在を続けているだけなのだ。

 蛍の光、窓の雪。
 別れがあるから、邂逅がある。
 ふみよむ月日、重ねつつ。
 一つの季節が終わり、だから次の季節が始まる。
 いつしか年も、すぎの戸を。
 全ての休む者たちよ、それは雌伏である。
 カバも、サイチョウも、コブシメも、そしてあの日の頭の上のカマキリも。どうやら、みんな、点滅している。明滅する宇宙の片隅で、私たちは互いの光と闇を感じ合いながら、それぞれ同じ夢を見ている。アリも、アリクイも、きっと同じ夢を見ているのだ。
 そんなことを思いながら、私は眠りに就いた。
 それは、安らぎにも似た、滅びの休符だった。

 


ワクサカソウヘイ
文筆家。1983年東京都生まれ。エッセイから小説、ルポ、脚本など、執筆活動は多岐にわたる。著書に『今日もひとり、ディズニーランドで』『夜の墓場で反省会』『男だけど、』『ふざける力』『出セイカツ記』など多数。また制作業や構成作家として多くの舞台やコントライブ、イベントにも携わっている。

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