ワクサカソウヘイ「アリクイと同じアリの夢を見たい」#05

ワクサカソウヘイ「アリクイと同じアリの夢を見たい」#05
 文筆家・ワクサカソウヘイさんは衝動を抑えることができない。ヌーと一緒に大移動をしたいし、カバと添い寝だってしたい。どんなに困難でも、彼らに近づき、彼らのことをもっと知りたいと願い続ける。これは、ひとりの「人間」と、あまたの「野生の生き物」たちとの逢瀬の日々を綴ったエッセイ連載です。時には海や砂漠で、また時にはジャングルやサバンナで繰り広げられる、少しストレンジな密会の行方は……?

 イヌ派か、ネコ派か。
 これはもう、人類に対する永遠の問いである。
「醬油派か、ソース派か」とか、「ディズニー派か、ジブリ派か」とか、「レターパックライト派か、レターパックプラス派か」とか、この世には様々な二択が溢れているが、「イヌ派か、ネコ派か」には他と一線を画す重みがあり、それはもはや、宗派を探るような問いですらある。そう、イヌは神であり、そしてネコもまた、神である。お前はイヌとネコ、どっちを崇拝しているのか。さあ、告白をするがよい。
 私はといえば、この問いに対して、ずっと「どちらも好き」と答えてきた。優柔不断なのではない。本当に、どちらも好きなのだ。

 イヌのまっすぐな瞳、正直な尻尾の左右スイング、そして嬉しい時の全身ダンス。あれは心臓に悪いレベルで愛らしい。私は特に大型のイヌが好きで、でっかいラブラドール・レトリバーに頭を押しつけられると、いつだって「恐縮です」と敬語がこぼれる。尊き存在に顔をベロで舐められている時の私は、必ず恍惚の表情を浮かべている。
 そのいっぽうで、ネコのつれなさも捨てがたい。呼んでも来ない、目を合わせてもくれない。その態度が逆にたまらない。こちらを翻弄してくる超越的なふるまいは、まさに神の仕草そのもので、気まぐれにこちらの膝に乗られると、天にも昇る陶酔感を得てしまう。ありがとうございます、ありがとうございます。すみません、本当に、ありがとうございます。
 ただ、ネコは小さい。そこだけが惜しい。
 私はどうも、小さな生き物に対して、「好き」と「心配」を同時に得てしまうタチなのである。あまりにも軽やかなネコの体重を膝の上で感じていると、ふとした拍子に命の重みが抜けてしまうのではないかと不安になり、おいそれと撫でることができない。ネコはくつろいでいるばかりだが、こっちの心拍数はどんどん上がっていく。

 というわけで、「イヌ派か、ネコ派か」という問いに対して、私は最終的に、このような答えを導き出した。
「自分は、大型ネコ派である」
 大型のイヌの包容力と、小型のネコの自由奔放さ、そのどちらも兼ね備えた、完璧な存在。それが、ネコ科の大型種だ。その威風堂々たる御姿に対して、こっちが愚かなる心配を抱く必要は、一切ない。
 百獣の神である、ライオン。
 高速の神である、チーター。
 孤高の神である、トラ。
 その姿、その風格を思い浮かべるだけで、私は忘我の境地でうっとりとする。それはもはや「信仰」の域にある、心が勝手に跪く感覚である。
「ネコ科の大型種が好きです」と、そんな単純な言葉で思いを表現することすら、もはや畏れ多い。古来、祭祀の中で神に祈りを捧げる手段として用いられたのは、短歌であったという。そうだ、この気持ちは、短歌で詠むことでしか処理できない。

好きですと口にしたとて足りぬもの
咆哮ではなく静けさで来る

 
 いつだって、神との出会いは、突然だ。
 アフリカ大陸の地で四駆車を走らせていると、夕方の霧の向こうから、「ぬっ」と現れたのが、成獣のメスライオンだった。
 白砂糖をまぶしたような、淡く白い毛並み。その厳めしい表情に浮かぶのは、この世の景色を見るでもなく見ないでもない、仏のごとき半眼である。中華まんじゅうのような掌底でゆっくりと草原を踏みしめているだけなのに、まわりの空気がひれ伏している。野生のライオンとは、こんなにも貫禄のある存在なのか。私は身もすくむような敬意と共に、夢中でその姿を拝んだ。
 すると、そのメスライオンの背後に、後光が射した。いや、あれは後光ではない。私はその正体に気がつき、ハッと息を吞む。あれは……、オスライオンのたてがみだ……。
 メスライオンを追いかけて、のっそりと現れたそのオスライオンは、喉元にまで黄金色のたてがみをたくわえ、もはや「全知全能の神」といった風貌である。
 なんせ百獣の王として広く知られるライオンだ。我が布教はとっくに完了せり、という余裕の佇まいで、霧の中を悠然と歩いている。瞑想をしているような眼がまた、なんとも気高い。
 そのありがたさに、手を合わせる。
 しかし、そのオスライオンが間近に迫ってくると、なんだか違和感が芽生えてきた。
 たてがみの毛並みが、やけにゴワゴワしている。「ポケットティッシュと一緒に洗濯してしまったのか」といった感じで、白いゴミのようなものがあちこちに付着している。悠然とした印象の足取りは、近くで観察すると、ただ単に「超だりい」といった感じで、やる気がひとつも感じられない。実際、わかりやすく大きなあくびをしている。舌がだらーんと垂れ、「もう、どう思われたっていい」というような風情である。瞑想をしているような眼だと思っていたが、よく見たら、寝起きで瞼が開き切っていないだけだった。その姿からは、たいした職にも就かずに昼間からパチンコばっかりやっているような、だらしのなさが漂う。
 ああ、生活感が、すごい。
 神って、実際は、こんな感じなのか。
 私は幻滅を覚えそうになったが、いやいや、神にだって休息は必要だ、私はたまたまオフの状態のライオンを見ただけなのだ、と自分に言い聞かせた。自身の信仰を、疑ってはならない。
 すると反対側から、小さなセグロジャッカルがライオンのほうへ、ふらりと歩み寄って来た。神の行く先を邪魔するとは、なんたる不届き者。その威光を前に、頭を垂れるがよい。と思っていたら、セグロジャッカルの接近に、オスライオンはビクッと体を震わせて、怯えながら小走りで進行方向を変えていた。セグロジャッカルは一瞥もせずに、まっすぐ堂々と、草原の奥へと消えていく。
 私はその一連の景色を、見なかったことにした。

パチンコの帰りのような足どりで
後光のウソと歩く聖者

 
 その時も、神との出会いは突然だった。
 太陽の照りつけるサバンナ。風が止み、音のない昼下がりが広がっている。
 不意に、ガイドが小さな声で私に伝えてきた。「いた、チーターだ」。
 その一言には、不思議な緊張が宿っていた。先にいる神聖な生き物に、畏敬の念を払うような、そんな耳打ちだった。
 じっとりと四駆車が近づいていったアカシアの木陰、そこには二頭のチーターが寝そべっていた。自らの存在を主張することもなく、気配を消すような加減でもなく、ただただ、涼を取っていた。
 チーターといえば、言わずと知れた、哺乳類最速の脚力を持つ生き物である。獲物を追いかける際の最大時速は、実に100キロメートル以上。首都高の制限速度を優に超えるスピードである。
 しかし、目の前にいる高速の神は、まったく動くことをせず、草に埋もれて前脚を投げ出している。かすかに揺れているのは、呼吸だけ。それはそれで、見てはいけないと思うほどの美しい姿だ。静止のチーターもまた、唯一無二の神性を漂わせていた。
 全身の筋肉が、いまはただ柔らかくほどかれている。だが、そこには沈黙を破る直前の、異様な緊張感が漂ってもいる。
 ある瞬間に、モーセは突然にして、海を割った。それと同じようにして、チーターは突然の俊足で、この無限の大地を割るのであろう。
 その奇跡の顕れの瞬間を、私は四駆車の中から、固唾を吞んで待ち続けた。おお、神よ。その真の御姿を、どうか顕現させてくださいませ。私は、祈りを捧げる。
 ゆらり、と一頭のチーターが立ち上がった。空気を切るためにデザインされた、流線形の背筋。その完璧なラインに、思わず見とれる。瞳の静けさの中には、光よりも速い意志が宿っているようだった。はるか遠方に、獲物を見つけたのか。ついに、その天上天下唯我独尊な脚力が、顕わになるのか。私は息を止めて、その行く末を見守る。
「にゃーお」
 予想もしないことが起きた。
 そのチーターは屈伸をしたかと思うと、なんとも可愛らしい声で鳴いて、再び草むらに寝転び、ゴロゴロと背中をくねらせ始めたのである。
 いやいや、「にゃーお」って。
 ゴロゴロ転がるって。
 めちゃくちゃ、普通のネコではないか。
 ガイドに「なにこれ、どういうことなの」と尋ねる。すると「まあ、チーターって、現地ではほとんど『普通のネコ』みたいな扱いを受けている動物なのよ」「性格も、鳴き声も、イエネコと一緒な気がする」「自分はもう十年ほどガイドをやっているけど、チーターが走って狩りをしているところなんて、数回しか見たことないね」みたいなことを言われる。
 あ、そうなの。そうなんですか。
 そうだよね、神にだって可愛らしい一面はあるものだよね。そうやって、自分に言い聞かせる。もう一度言うが、自身の信仰を、疑ってはならない。
 その瞬間、チーターと目が合った。その瞳の中には、意志とかそういうものは一切宿っておらず、「マジで何も考えていません」みたいな虚無だけが広がっていた。
 私はその瞳の色を、見なかったことにした。

走らずに神はただいま寝ておられ
草にまみれて虚無にまみれて

 
 神に遭遇することができるのは、なにもサバンナだけに限られた話ではない。
 私は南インドの森の中にいた。
 この目に映したいと願った神の化身、それはトラである。
 案内を務めてくれた地元の青年は、「この辺りだったら、野生のトラに会える確率はだいぶ高いよ」と豪語した。
 ネコ科の大型種の中でも、トラという生き物は、個人的に尊さの位がかなり高い存在である。中島敦の『山月記』における、最後の一文はかくも美しい。
「虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、又、元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった」
 トラは、猛々しさと同時に、ある種のもの寂しさを漂わせる生き物だ。苔むした森の奥に潜み、単独行動を好み、月夜の晩に獲物に奇襲をかける。孤高にして、至高。他の力に頼らず、ただ一頭で森林を支配しようとするその姿は、毛皮を纏った聖典である。
 湖のほとりにジープを停める。青年曰く、トラは夕方になると、よくここに水を飲みに来るという。
 その登場を、じっと待った。辺りには静寂だけが広がっている。時々、イノシシやガウル(インド地方のヤギュウ)、カワセミなどは現れるが、肝心の神はいつまで経っても降臨しない。
「時間切れだね、もうすぐ夜になる」と青年が告げる。トラに会うことはできず、がっかりとした気分を携えながら、ジープで来た道を戻る。
 ふと、なにもないところで突然、車がストップする。なんだ、もしかして、トラが向こうから現れたのか。
「見てごらん」と青年が地面を指さす。そこには、トラの大きな足跡がある。なんだ、そういうことか。私は拍子抜けする。
 しかし、落胆の裏側で、かすかな高揚が湧き立ち始めた。完全な姿ではなく、痕跡だけを顕わにされたことで、むしろトラの神格化は私の中で加速していく。
 たとえば旧約聖書の神も、いちいち顔を出したりはしない。嵐の背後で気配を感じさせたり、石板だけを置いてどこかへ行ってしまったりするだけだ。
 ギリシャ神話のゼウスだって、姿を変えて出てくるばかりで、本体像は曖昧である。
 日本神話では、天照大神が岩戸に隠れたり、岩戸からまた出たりして、その出現は気まぐれだ。
 あと、日本全国各所には、「ここで昔、木村拓哉がサーフィンをしていたらしいんだ」と語られる浜辺がいくつも存在している。地元の人がチラッと木村拓哉の姿を見かけただけなのに、その浜辺はあっという間にサーファーの聖地へと姿を変える。なんか、弘法大師が杖で色んな場所に温泉を開くような話に似ている。木村拓哉もまた、ある界隈では神なのである。
 そうか、チラ見せこそが、神の本質なのではないか。そう思うと、野生のトラに出会えなかったことも、すんなりと納得できるから不思議だ。
 実際のトラに会って、なんか思っていたよりも小ぶりだったり、あんまり強そうじゃなかったり、わりと仲間とつるんで自宅で餃子パーティーとかするタイプだったりしたら、思い描いていた神性は一気に幻滅する。私はトラと会えなかったが、だからこそ神たるトラと遭遇できたのかもしれない。

出てきたらきっとなんかが違ってた
見なかったからまだ神でいて

 無駄に一首詠みながら、ロッジを目指してジープに揺られる。左右に広がる鬱蒼とした森林からは、インドならではのねっとりとした風が流れてくる。空の色は、淡いオレンジから紺色へと変わっていく。
 するとその時、またしてもジープが停まった。なんだ、トラの足跡、再来か。
「静かにして。サルたちが、やけに騒いでいる」
 サルの鳴き声が聞こえるからって、それがいったい何だというのだ。しかし、青年の顔は真剣である。鋭い眼光を、森林の奥にギロリと向けている。
「……いた! 見て!」
 青年が、木々の深みに指をさす。
 そちらに目を向けてみると、太い木の枝の先に、それは、いた。
 インドヒョウである。
 絶滅を危惧されるほどに個体数の少ない、幻の存在。それが、枝の上で、サルを捕食していた。森の中でサルたちが騒いでいたのは、仲間が食べられたことに対する警戒の声だったのだ。
 青年は、夢中でシャッターを切っていた。インドヒョウが捕食をしているシーンなど、滅多に見られるものではないらしい。私も慌ててそれを真似るようにカメラを取り出し、ファインダーを覗き込む。
 そこに映ったインドヒョウの姿は、完全なる「宗教画」であった。
 あまりにも完成されたポーズに、目を疑う。なんだ、これは。何枚か写真を撮るが、やがてファインダー越しに見ることが惜しくなる。カメラを置き、自分の眼で、そのインドヒョウの姿を気の済むまで崇めに崇める。斑点模様の美しい大型のネコは、見透かすような視線でこちらを射抜きながら、ゆるやかに食事を続けていた。
 ああ、うかつにも神と対面してしまったのだ。そう確信した私は、なにが根拠であるのか不明な涙を浮かばせた。

写真機で時を切るたび惜しくなる
神を撮るにはまばたきが邪魔

 
 私には信仰する宗教がない。どこかの教義に帰属しているわけでもないし、日々祈る対象もない。
 でも、こう思うのだ。「好き」という心の動きは、どう考えても、祈りそのものなのではないか、と。
 好きなものがあるということ。尊い存在がいるということ。それは「自分だけの神」を持っているということであり、「いまの自分にとってのすべて」を持っているということでもある。
 「好き」の対象は、人によって異なる。動物だったり、花だったり、人間だったり、あるいは何かの作品だったりもする。「好き」は自由で、そして「好き」はなによりも心強い。なにかに惹かれること。それを笑う権利など、誰も持ってはいない。
 私は、ネコ科の大型種を好む派である。ネコ科の大型種こそが、私にとっての神である。
 あの木の枝の上のインドヒョウに、もう一度だけ会いたい。
 でも、もう会えなくても、その神は、ずっと私の中にいる。だから私は、これから先、なにがあったとしても、確かな想いと共に生き続けていくことができる。

たてがみのきみを覚えて眼を閉じる
いまも胸には百獣が棲む

にゃーおとは神が鳴いたと記すべし
あの日の草はここに揺れおり

足音も月もなかったその晩に
それでも虎を私は見たのだ

もう会えぬその沈黙が守るもの
好きであることそれが祈りだ

 


ワクサカソウヘイ
文筆家。1983年東京都生まれ。エッセイから小説、ルポ、脚本など、執筆活動は多岐にわたる。著書に『今日もひとり、ディズニーランドで』『夜の墓場で反省会』『男だけど、』『ふざける力』『出セイカツ記』など多数。また制作業や構成作家として多くの舞台やコントライブ、イベントにも携わっている。

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