藤原麻里菜『不器用のかたち』試し読み 第3弾「Fのセーター」

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 唯一無二のアイデアとユーモアで「無駄づくり」を続ける発明家・藤原麻里菜氏は、意外や意外、自他共に認める不器用人間。そんな藤原氏がただ純粋に物作りを楽しむエッセイ『不器用のかたち』刊行に向けて、厳選した全3話を特別公開!
 下手でも途中で諦めても、「不器用のかたち」が心を救ってくれるはず。

「Fのセーター」

「断捨離」のそれぞれの文字には、ヨーガの行法(ぎょうほう)である断行(だんぎょう)・捨行(しゃぎょう)・離行(りぎょう)に対応し、

断:新たに手に入りそうな不要なものを断る
捨:家にずっとある不要な物を捨てる。
離:物への執着から離れる。
 (引用:Wikipedia「断捨離」)

という意味がある。

 まず最初は使っていない炊飯器だった。使っていない炊飯器を捨てたら、物置にスペースができて、そのスペースを眺めながら酒が飲めるほどにはうれしかった。それから本棚、テレビ台、椅子、布団などを手放し、最終的に自分の服を手放した。今は下着類を除くと15着しか残っていない。私は断捨離に見事にハマり、ミニマリストとまではいかないけれど、それに近い存在になっていった。テーブルもいらない。床で食えばいい。電子レンジもいらない。尻で温めればいい。そう思えば、この世のすべてのものがいらないと思い始めてきた。無駄な物を作っているのに、家にある無駄な物は捨てる。矛盾しかない自分自身の行動に信念のなさを感じながらも、こうやって何かを手放して虚無の空間が生まれることが楽しくてしょうがなかった。しかしながら、服が15着しかないというのはなかなか苦労するものである。まず、ものすごく寒さを感じるようになった。冬に着る服がないのだ。

 友人たちがこぞって編み物をやっており、その成果物を見ていると、私もやってみたいと思うようになった。編み物は心にもよいと聞くし、常に心がざわついていて物作りが好きな私にはもってこいの趣味ではないか。ということで、なんとなしに糸と棒を購入した。ちなみに、編み物はコロナ禍のときに始めようと思って挫折した経験があるが、一回挫折したくらいで再び挑戦しないという理由にはならない。

 糸と棒を見つめ、何を作ろうかと悩む。そうだ。Fと書かれたセーターを編もう。サザエさんのカツオよろしく、自分の名前を堂々と表示しながら歩いてみたい。俺の名前はFから始まるぞ! どうだ! しかも、これ手編みだぞ! どうだ! そんな具合に生きてみたい。

 しかしながら、まったくの初心者がセーターから編み始めるというのは、野球をやったことのない人がホームランを打とうとするくらい途方も無いことである。けれども、私はセーターを編みたいし、野球のルールさえ知らないけれどホームランくらいだったら打てる気がする。「まずは基本の四角形から編みましょう」といってくる教本をすっ飛ばしてセーターの編み方に目を通したら、編み物の図や記号など難解なものが出てきたので、一旦本を閉じる。

 とりあえず基本の編み方を覚えて、大きな四角い布を2枚作って、それを裏表に重ねるだけでセーターっぽくなるんじゃないかな。ファッションに詳しい夫に聞いたら、そういった布を2枚重ねただけの襟ぐりのない服のトレンドがあるらしい。それです。それを作ります。まずは、編み方をどう習得するかだ。教本には図解されているけれど、みるからに難しく、私には絶対にできないという諦めが漂ってくる。物作りの過程においてインターネットを見るのはなぜだか禁止している。インターネットを使うと自分の能力が否応なしに700倍くらいに膨れ上がってしまうからだ。なので、デザインの仕事をしていて器用な夫に図解を見てもらい、それで習得した技を伝授してもらうという無形遺産みたいなことをやることにした。夫がこうじゃないかな? と、やる技を見て、私も真似する。すると、一目編めた。これをセーターの幅分繰り返せばいい。

 編み物には棒針あみとかぎ針編みがあるということを知った。棒針編みというのはよくおばあちゃんがやっているような2本の棒を使った編み方で、直線的なものを作ることができる。かぎ針編みは1本のかぎ針で編む編み方で、丸い形やおもしろい模様なんかを作ることができるのだ。私はなんとなく棒針を選んだのだが、これは単調作業が好きな私にとってはかなり好手だった。ずっと同じ作業を続けていれば、なんとなく編めるようになるのだ。これで合ってるのかはわからないが、集中してとりあえず半分くらい編めた。Fの模様を入れたいので色を入れ替える。新しい色の糸を引き抜き、編み込んでみたら、意外にもできた。なにも見ずにこんな高度なことができるなんて、私ってIQ5000ありそう。編み物は、ノリと勢いである。失敗しても、すぐに糸をほどいて取り返すことができるから、失敗を恐れずに、ただノリで編んでいればいい。

 しかし、編み物というのは心地の良い暖炉の音でも聴きながら、ロッキングチェアに座りながらやるイメージがあるが、私の場合は無音で地べたに座り前のめりになりながらやっている。それに2本の棒を両手に揃えて、器用に編んでいくイメージもあるが、私の場合は1本を太ももの間に差し込み、もう片方に編み込んでいくスタイルをとっている。さながら漁師が網を作っているようなワイルドさがここにはある。そのスタイルが悪かったのか、私は左手の爪にあざができてしまい、編み物をするたびに激痛が走る。

 集中して編み物をしていると、ぽたりとどろっとした液体が編みかけのものについた。よだれである。ここで気づいたのだが、私は集中するとよだれをたらす。セーターを編んでいる間、5回はよだれをたらしてしまった。

 指の激痛を耐え忍び3日かけて編み上げたそれは、袖をつけるのがめんどうでやめてしまったので、セーターと呼べるものには仕上がらなかったが、胸元にあるFという文字がきらめいて見える。裾が短いし、なにか飛び出てるし、Fの位置が正面ではなく左にずれているし、表編みと裏編みが混在しているし、よだれまみれだし、これを着ていたらどこへ言っても「自分で作ったんですか?」と言われるであろうほどに手作り感が満載だが、私はけっこう気に入っている。ためしに外に着ていってみたら、周りの白い目に反してセーターはとても暖かい。短ランセーターの完成だ。

 アメリカの作家であるヘンリー・D・ソローは自身の著書『ウォ―ルデン 森の生活』のなかでこう言った「だからといって編むことが自分にとって無価値とは思わなかった」。

 籠を編んでいた彼だが、どうにも上手く編むことはできず、とてもじゃないけれど、売り物にはならないものが完成したそうだ。しかし、彼は編むことは無価値ではないと言っている。彼は編むことの楽しみを見出し、その過程にこそ価値があると感じたのだろう。私も同じで、作るものは売り物になるようなものではないが、作る過程にこそ売る以上の価値を感じる。不器用だからといって、物を作ることを諦めてはいけないのだ。売れないからといって、それが無価値というわけではないのだ。ただその過程にある楽しさを単純に価値として受け取ればいいだけだ。

 いらないものを手放して、いらないものを作る。必要のあるものを手放して、必要のあるものを作る。いらないものも必要なものもどちらも私たちの生活には絶対的に存在するべきものである。

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藤原麻里菜_不器用のかたち_試し読み_セーター

\ 2024年11月27日発売!/

藤原麻里菜_不器用のかたち_書影

 


藤原麻里菜(ふじわら・まりな)
1993年生まれ。コンテンツクリエイター、文筆家。頭の中に浮かんだ不必要な物を何とか作り上げる「無駄づくり」を中心に活動中。2016年、Google社主催の「YouTubeNextUp」に入賞。19年、「総務省 異能vation 破壊的な挑戦者部門」採択。21年、「オンライン飲み会緊急脱出マシーン」で文化庁メディア芸術祭エンターテイメント部門審査委員会推薦作品選出、 Forbes Japanが選ぶ「世界を変える30歳未満」に選出。22年、青年版国民栄誉賞TOYP会頭特別賞受賞。Xアカウント@muda_zukuri
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