古矢永塔子『今夜、ぬか漬けスナックで』

古矢永塔子『今夜、ぬか漬けスナックで』

ぬか漬け、始めました。


『今夜、ぬか漬けスナックで』は、職と住居を失った主人公の女性が、祖母から受け継いだぬか床を抱えて瀬戸内海の離島に移住する物語だ。原稿を書きながら私は、迷っていた。物語の行方についてではなく、ぬか床を持つか、持たないか、について。

 何しろ私は小学生時代から、夏休みの宿題のミニトマトや、朝顔の鉢植を枯らしてきた人間だ。ぬか床を持ちたい気持ちはありつつも、責任を持って管理する自信がなかった。

 そんな時に背中を押してくれたのが、原稿のプルーフを読んでくださった書店員さんからの「ぬか床を始めたくなりました」「迷っていたけど、ぬか床を買います!」というご感想だ。読んでくださった方が始めたくなるのだから、書いた私が始めたくなるのもやむなし! というわけのわからない理屈をつけ、私はぬか床沼に飛び込んだ。そして思いのほか、はまってしまった。

 最近では野菜だけでは飽き足らず、チーズやナッツなども漬けている。おいしく漬かる日もあれば、首を傾げたくなる出来栄えの日もある。水気が多ければ乾物を入れ、酸味が足りなければ丹念に掻き混ぜ、味が薄ければ塩を足す。その試行錯誤が楽しい。しっとりとしたぬかを掻き分け野菜を掘り出す瞬間は、幼い頃の砂場遊びを思い出す。

 ぬか漬けは、とてもプライベートな食べ物だ。他人が握ったお結びには抵抗がある、という人が増えている昨今、素手で掻き混ぜ菌を活性化させて作るぬか漬けは、なかなかハードルが高い。私としても、誰彼構わず自分のぬか漬けをお裾分けできないし、逆もまた然り。『同じ釜の飯』という言葉があるが、同じぬか床の漬物をおいしく食べられたら、そこにはもうきっと、深い親愛が芽生えている。作品の主人公・槇生は、自作のぬか漬けを振舞うことで、周囲の人々の心をほどいてゆく。だが槇生自身もぬか漬けを食べてもらうことで、自分を丸ごと受け入れてもらえたような安らぎを感じていたのだろうなと、改めて気付かされる。

 今日も私はぬか床を覗く。長く手入れをしてゆけば、掻き混ぜる余裕がなくてほったらかしにしてしまったり、そっと見守るべき時に掻き混ぜ過ぎてしまうこともあるだろう。取り出すことを先延ばしにし、ぬか床の底でくたくたになった古漬けを作ってしまうことだって、あるかもしれない。

 ぬか床の手入れって、何かに似ている。そんなことを考えると、日々自分だけの味に育ってゆくぬか床に、一層愛着がわくのだ。

 


古矢永塔子(こやなが・とうこ)
1982年青森県生まれ。弘前大学人文学部卒業。2019年『七度笑えば、恋の味』で第一回日本おいしい小説大賞を受賞。本作が受賞後第一作となる。高知県在住。

【好評発売中】

今夜、ぬか漬けスナックで

『今夜、ぬか漬けスナックで』
著/古矢永塔子

アジア9都市アンソロジー『絶縁』情報解禁!
週末は書店へ行こう! 目利き書店員のブックガイド vol.65 丸善お茶の水店 沢田史郎さん