武塙麻衣子「一角通り商店街のこと」12. 茶舗なかむら堂

武塙麻衣子「一角通り商店街のこと」12

〜大学生の雄士とごはんの話〜

12. 茶舗なかむら堂


「あの、すみません」

 駅の改札を出て歩き出したところで、か細い声で呼ばれて雄士ゆうじは後ろを振り返った。その拍子に、右肩だけで背負っていたリュックサックがぶんと揺れ、「あ」という声とともにランドセル姿の男の子がすとんと道路に尻もちをついた。まだ小学校低学年くらいなのだろう。背中のランドセルはかなり大きい。

「うわ、ごめんね! 大丈夫?」

 雄士が慌ててしゃがみ、顔を覗くと、男の子はくちびるを嚙みしめて立ち上がり、それから、

「大丈夫です。こちらこそ急にごめんなさい」

 と頭を下げた。こちらこそ。自分がこの子くらい小さかった頃、そんな言葉を知っていただろうか。呆気にとられてしゃがんだままの雄士に、

「一角通り商店街ってここから近いですか?」

 そう言って、男の子が紺色のピーコートのポケットから取りだした紙には、茶以外はすべてひらがなで「茶なかむら」と書かれていた。

「茶?」

「はい。お茶のお店です。ここに行きたくて」

 茶舗なかむら堂だ。ちとせや三号店のはす向かいにある小さな店で、入ったことはないけれど店の前はいつもお茶の良い香りが漂っている。

「えーと、一人でおつかい? 誰かおとなの人は一緒じゃないの?」

 お父さんかお母さんは? と訊こうとしてやめた。自分が小さい頃に外で「お父さんは?」と聞かれることがある度にいつも少しだけ胸がざわざわしたことを思い出したからだ。男の子は一瞬ためらってから、

「今日は一人です」

 と答えた。

 

 一角通り商店街は複数の路線が近くを通っているにも関わらず、実際にはどの駅からも絶妙に離れた陸の孤島のようなところだ。スマホの地図を見せると、男の子はわかったのかわからないのか、少し首をかしげたままこくんと頷いた。小学校低学年の子はどのくらいの速さで歩けるのだろう。

「大人の足でも十五分くらいかかるよ? 大丈夫?」

 たとえば今この様子がどこかの防犯カメラに映っていて俺がこの子と一緒に歩き出したら、それは誘拐事件のように見えないだろうか。考えたら首筋がぞわっとして、男の子を見た。だけど道を説明しただけで、この子を一人で行かせるのももうなんだか不安だ。横断歩道を渡って大通りを右に曲がりさらに路地を左に入ったところまでなんて一人で行けるのか? 心配されていると思ったのか、男の子は背中のランドセルをゆすりあげると、

「大丈夫です」

 と今度ははっきり声に出して言った。

「じゃあ途中まで一緒に行こうか」

 ほっとしたように男の子はこちらを見上げて頷いた。

 

 線路沿いの道を並んで歩きながら、名前と年齢を尋ねると「高橋たかはしかおる、八歳です」と答えた。学校は、このあたりじゃないよね? と訊くと今度は口をつぐんでしまった。ピーコートはどうやらどこか私立の学校の制服のようだ。まだピカピカの金色のボタンが二列に三つずつ並んでいる。薫が黙ったままうつむいてしまったので、言いたくないならまあいいかと思い、しばらく無言で歩いた。薫はとことこと小さな歩幅でついてくる。時おり冷たい風が吹き、二人ともその度に首をすくめた。

「あ」 

 薫が足を止めたので、つられて雄士も立ち止まる。

「今、沈丁花の匂いがした」

「え、本当?」

 二人してきょろきょろと周りを見回すと、金網の向こう側で線路の際にいくつも植えられた小さな沈丁花の木が紅紫と白の花をほころばせていた。

「僕のお母さん、沈丁花が好きなんです」

 二月の寒さの中、沈丁花の香りはきりりと甘い。

 

 午後の一角通り商店街は、買い物客で賑わっていた。

「自転車、結構通るから気をつけてね」

 振り返ると、薫は左右に並ぶ商店を物珍しそうに眺めている。ここに来たばかりの頃の自分のことを思い出して雄士は微笑ましい気持ちになった。

「こういう商店街って家の近所にはない?」 

「ないです。すごい。ここにはなんでもありますか?」 

 なんでもかどうかはわからないけれど、少なくとも雄士が探して見つからなかったものはないはずだ。

「たぶん、なんでも」

 薫は感心したように、はあと声をもらした。不動産屋さんと携帯ショップの前を通り過ぎ、ちらりとちとせや三号店に目をやると、入口にはまだクリスマスツリーが飾られていた。赤や青の電飾が眩しすぎるほど陽気に点滅して、クリスマスソングまで流れている。ツリーに目を奪われている薫の肩をぽんと叩く。

「着いたよ。なかむら堂さんはここ」

 茶舗なかむら堂の店頭に出されたワゴンには、セール品のお茶っ葉の袋やナッツ、飴やおかきなどが並んでいた。店の奥からは、たき火をしている時のようなほのかな煙の匂いが漂ってくる。

「いい匂いだなあ」

 雄士が息を吸い込むと、隣でぽつりと薫が呟いた。

「ほうじ茶」

 確かに言われてみればこれはほうじ茶の香りだ。よくわかるね、と言おうとした雄士をよそに、薫は深呼吸をひとつすると、おもむろに店内に足を踏み入れた。

「あ、ちょっと」

 雄士としては店の前まで薫を送れば十分だと思っていたのだが、それじゃあここで、と切り出すよりも前に薫が店に入ってしまったので、しかたなく後に続いた。紺色のハイソックスを履いた細い足がこまかく震えていたのを見てしまったからには放っておけないし、小学生が茶舗で一体なんの買い物をしたいのかも少し気になった。

「ごめんください」

 まただ。この子は本当に八歳だろうか? 八歳の頃の自分に言えたのは、せいぜいがこんにちは程度だったはず。薫の小さな声が聞こえたのか、茶の字が染め抜かれた暖簾をくぐって作務衣姿の店主らしき初老の男性が奥から現れた。

「いらっしゃいませ。なかむら堂へようこそ」

 目尻にこまかい皺を刻んだ静かな笑顔のまま、雄士と薫の両方をゆっくりと見る。やましいことは何もないのにこれじゃまるで蛇に睨まれた蛙だ。ごくりと雄士は唾を飲んだ。俺たちのことはたぶん年の離れた兄弟だと思うだろう。いくらなんでも父親には見えるまい。

「何をお探しですか」

 正面の棚には、どっしりと重そうなブリキの缶が並んでいた。ひとつひとつについた札には几帳面な字で「宇治」「静岡」「知覧」などの地名が書かれている。

「ここは少しお値段の張るコーナーですね。贈り物にいいかと思います」

 店主は明らかに雄士に向かって話し始めた。

「普段使いのものをお探しならこのあたりです。お探しは緑茶ですか? 玄米茶やほうじ茶なんかはあちらです。多くはないけれど紅茶や中国茶も扱っていますよ」

 耳に心地よい声で話しながら、店主は店内の棚に並ぶ商品をほっそりとした白い指でひとつひとつ示していく。歌でも歌っているかのようななめらかな声につい聞き入ってしまったけれど、客は俺じゃないって言わなくちゃ、と雄士が口を開こうとした時、薫がランドセルを背中からおろし、トンと音をたてて板張りの床に置いた。しゃがんで、布にくるまれた小さな包みを中から取りだす。

「これと同じ物、こちらに売ってませんか?」


 

萩原ゆか「よう、サボロー」第121回
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