武塙麻衣子「一角通り商店街のこと」12. 茶舗なかむら堂
店主は驚いたように薫を見て、それから手を伸ばした。
「ちょっと失礼」
店主は、ゆったりとした動作で薫から包みを受け取ると、わずかに右足を引きずりながら店内を移動した。古そうだがきちんと手入れをしているのであろう天秤はかりの置かれた木のカウンターにそっと包みを載せる。
「開けていいかな?」
薫が頷いてみせると、店主は丁寧に包みをほどいた。中から出てきたのは、ふちの欠けた湯飲みがひとつ。店主の眉毛がかすかに持ち上がった。
「これ、お母さんの大切なものなんです」
真剣な顔で薫が言った。
「なのに僕が割ってしまって」
しばらく何ごとか考えていたようだったが、店主はやがて湯飲みを手に取り、ためつすがめつ眺めた。細い指で、湯飲みの外側や内側をなぞる。やがて顔を上げ、わずかに紅潮した顔で店主は尋ねた。
「割れてしまった欠片はまだ残っていますか?」
「直るんですか」
薫は、ランドセルの中から、新聞紙でくるんだ小さな包みを取りだした。
「私では直せないけれど、私の友人ならばもしかしたら」
その答えを聞いて、薫は悲しそうに首を振った。
「じゃあだめです。今日、持って帰らないと。お母さんに黙って持ってきちゃったから」
「新品ではないけれど、同じ柄の湯飲みがこの店にもひとつあります。それを代わりに持って行きますか?」
薫の顔がぱっと輝く。
「でも差し上げることはできないんです。売り物ではないので」
「じゃあ割っちゃったのを直してもらうまで、お店のものを貸してもらったら?」
雄士が口を挟むと、店主も薫もそろってくるりとこちらを振り向き、「ああ、そういえばいたな」という顔をした。ええ、いたんですよ。
「不躾な質問ですけれどもそちら様は?」
店主に訊かれて、答える。
「駅でたまたま道を訊かれて連れてきたんです。商店街の喫茶店でバイトしているんです、僕」
それを聞いて店主の表情が和らいだ。
「ああ、ネムノキの人か」
納得したのか、壁に沿ってゆっくりと移動し、暖簾の奥にいったん入った店主は、ごそごそと箱か何かを開け、それから湯飲みをひとつ手に戻ってきた。
「これだろう、君のお母さんの湯飲みと同じもの。ようく見たら別ものだとばれてしまうとは思うけど」
確かに、まったく同じ七宝文様が描かれているけれど、湯飲みの内側は、どんなに綺麗に手入れしていてもやはり違いがある。
「なるべく急いで綺麗に修理させるよ。一週間で取りに来れるかい?」
はい、と薫はほっとしたように言った。
「ありがとうございます。あの、お直しの値段ていくらになりますか」
「これくらいならいらないよ。来週の水曜にまたおいで」
店主は、同じ柄の湯飲みを新聞紙でくるくると巻き、ぺたりとセロハンテープで止めた。
「しれっと食器棚に戻しておきなさい。君のお母さんならたぶん湯飲みが変わったことにも気付かないさ」
薫がふと顔を上げた。
「お母さんを知ってるんですか」
店主は目を丸くして、まさかと首を振った。
せっかくだから何かお茶を買って帰ろう、と店内のお茶っ葉を見てまわっていた雄士だが、薫が帰り支度を始めたので「駅まで送ろうか」と声をかけた。いえ、帰り道はわかります、と薫は答え、ではまた来週来ます、と店主に向かって一礼すると店を出て行った。自分が割ってしまった湯飲みの代わりの湯飲みを大事そうに抱えて。
「お兄さん、ばいばい。ありがとう」
と最後に手を振ることを忘れなかったので、やはりいい子だと思う。
「気をつけて帰るんだよ」
つい大人みたいなことを言ってしまった。
「それにしても薫くん、なんであの湯飲みがここにあるって思ったんでしょうね」
店主が、道案内のお礼に茶でも一杯飲んで行きなさいと言うので、ありがたくご相伴にあずかることにして、赤い布をかけた木製の長椅子に腰かけた。
店主が茶缶から茶葉をスプーンでひとすくいして急須に落とす。茶葉にそっとお湯をかけると青々とした香りが、急須からふわりと立ちのぼった。
「一服どうぞ」
差し出されたぽってりと丸い湯飲みは、温かく澄んだ緑の液体がとても美しい。
「お茶って綺麗ですね」
思わず声が出た。家で飲むお茶なんてティーバッグをマグカップに放り込んで、そこに何度もお湯をどばどば注ぎ足して飲むただの色のついた薄味のものだ。
「美味しい」
口にふくむと、香りはいっそう広がった。
「それはよかった」
お茶請けに、と、おかきの皿を雄士の横に置き、店主はその横に腰を下ろした。
「ここにね」
薫から預かった方の割れた湯飲みの底を指でなぞる。
「ここに茶舗なかむら堂って彫られてるでしょ」
「あ、本当だ」
薫は、まだ茶しか漢字が読み書きできなかったからメモに「茶なかむら」と書いてあったんだ。
「これはね、家を出て行った私の娘が昔、何十年も前に絵付けしたもので、家族しか持っていないものなんですよ」
へえ、と言いかけて、雄士ははっと顔を上げた。
「え? じゃあ」
「どうやらあの子は、私の孫のようです。初めて会いましたがね。薫か、いい名前だな」
茶舗なかむら堂二代目店主である中村修一さんと娘の翠さんは、暮らしの上でことあるごとにぶつかった。翠さんの進学先について揉め、就職先について揉め、ついには「商店街の他の店は子供たちがきちんと後を継いでいるじゃないか」と思いっきり責めてしまった。それをきっかけに翠さんは、ここを出て行ってしまったのだ。
「それは……今どきなかなかきついですね」
お茶をもう一口飲み、遠慮はしつつも思った通りのことを雄士は言った。店主は膝に手を置きながら立ち上がり、
「そうですよね」
と目頭をおさえた。しかしその口元はわずかにほころんでいる。そして急に明るい声で言った。
「そうだ。良かったらお茶、好きなの持っていってください。孫を連れてきてくれたお礼だ」
そうは言われても家にはちゃんとした急須や湯飲みなどない。若い子はこれだからなあ、と残念そうに言いながら、中村さんは入口に一番近い棚に並んでいたティーバッグの袋からひとつを選んだ。
「じゃあはい、これ。お茶は飲むと風邪予防にもなるよ。まだまだインフルエンザも流行っているらしいし、これ持っていって」
ありがたく受け取ることにした。
「来週、娘さんも薫くんと一緒に来てくれるといいですね」
ティーバッグの袋を紙袋にいれ、店の名前入りのテープを貼りながら、中村さんは首を振った。
「そんな高望みはしちゃいないですよ。あの子が湯飲みを捨てずにずっと持っててくれたってだけで今は十分です。その上、あんな可愛い孫までね」
ほい、と涙声で渡された番茶の紙袋をリュックサックにしまい、良かったら来週、薫くんとネムノキにケーキでも食べに来てください、と雄士が言うと、あのちびっ子、ケーキは好きかな? と照れくさそうに中村さんは頭を搔くのだった。
「あー、あーあー」
狭いキッチンでお湯を沸かしながら、小さく声をだしてみた。二月のフローリングの冷たさが厚い靴下を履いていてもまだじわじわと足元から這い上がってくる。帰宅するまではなんともなかったのに、部屋に入ると急に喉がイガイガし始めた。特に痛みはなく熱っぽくもないので風邪をひいたわけではなさそうだが、用心するに越したことはない。やかんがしゅんしゅんと音をたて始めたので火をとめ、なかむら堂でもらった番茶のティーバッグをひとつ落としたマグカップにお湯を注いだ。冷蔵庫を開け、梅干しのタッパーを取りだす。先月富山に帰省した時、祖母が去年の夏に漬けたものをわけてくれたのだ。小学生の頃、梅干しを天日干しする三日間は、早朝から庭に広げた竹製の巻きすの上の梅干しをひっくり返すのは雄士と胡桃の役目で、いつも競って大量の梅をひっくり返していた。急ぎすぎて途中で梅の皮が破けてしまうと一点減点というゲーム方式で、慎重なのに集中力が続かない雄士はいつもあとちょっとというところで皮を破いてしまってくやしい思いをした。去年は胡桃が一人で全部これをひっくり返したのだろうか。スプーンにのせた梅干しを湯気の立つマグカップにひとつぽんと落とす。
「梅干しを入れた番茶を飲んで休んだら風邪なんて一発で治るから大丈夫よ」
昔、祖母もなかむら堂の店主と同じようなことを言っていた。本当に風邪が治るかどうかはわからないけれど、でもこんな日は暖かくして、のんびりとお茶を飲むのも悪くない。
(次回は10月31日に公開予定です)
1980年神奈川県生まれ。『諸般の事情』『驟雨とビール』などのZINEを発表後、2024年『酒場の君』(書肆侃侃房)で商業出版デビュー。
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