武塙麻衣子「一角通り商店街のこと」10. 一角通り動物病院
〜大学生の雄士とごはんの話〜
10. 一角通り動物病院
「おはようございます。ココイチ連れてきました」
緊張しながらガラスドアを開けると、ろろろんといういつもよく聞くあの音がして、カウンターの更に奥から一斉に犬たちの合唱が聞こえてきた。楽しそうではあるが、はたして歓迎されているのかどうか。雄士は、古いキャリーケースを胸の前で守るようにぎゅっと抱え直した。キャリーケースの中のくったりしたタオルの下でごそり、とココイチが動く気配がする。商店街の端、アーケード入口に建つ薄いピンク色のこの建物は一角通り動物病院である。この辺りに動物病院は恐らくこの一軒しかなく、雄士が今まで一度も入ったことのなかった場所の一つだ。
「ああ、おはようございます。ご苦労様です」
カウンターに顔を出したのは、青い制服を着た潤子さんだ。喫茶ネムノキの常連さんで、雄士はまったく知らなかったのだけれど、この動物病院に勤めて三十年の副院長だそうだ。ネムノキで昔馴染みの千恵子さんと話している時ののんびりしている人と同一人物とは思えないくらいに今日はきびきびしている。ココイチの入ったキャリーケースをさっとカウンターの向こうから受け取った腕には無数の傷がついていた。どれだけたくさんの動物の面倒を見ているのだろう。潤子さんが早速キャリーケースの中のココイチに優しく何事か話しかけている。今朝、多分これがココイチ用だろうと目星をつけたタオルも一緒に入れてきて正解だった。こんなに犬たちが周りでわんわん吠える声がしていては、ココイチもきっと不安だ。
「今日の分の注射、すぐ済ませるわね。スケジュール通りだと明日はご自宅で点滴の予定だけどどうしましょうか。こちらでお預かりしましょうか」
雄士は、首を傾げてしまった。それはどうしたらいいのだろう。話は、昨日に遡る。
かなり焦った男性の声で電話がかかってきたのは、夜八時を過ぎた頃のことだった。
「もしもし、雄士くん? これね、シゲさんの携帯からかけてるんだ。僕、鶴亀湯の守本です」
「守本さん? どうしたんですか」
いくつかあったテストは先月末にすべて受け終えたので、今書いているレポート一本さえ完成すればもう冬休みも同然だ、と気分的になんとなくのんびりしていたところに突然鳴ったスマホが予想以上に大きく響いたので驚いた。守本さんは、鶴亀湯の三代目店長で、一角通り商店街の店主たちの中ではかなりの若手に入る。いつも元気で優しくて、お客さんが少ない時などにこっそり紙パックのいちご牛乳をくれたりする人だ。そんな守本さんの声が震えている。
「シゲさんがどうかしたんですか?」
重ねて訊くと、守本さんがごくりと唾を飲み込んだ。
「シゲさん、風呂あがったところでいきなり倒れたんだ」
いつもと同じように長風呂を楽しみ、飲み仲間と一緒にこれからどこで一杯やろうかとわいわい話しながら脱衣所にあがったところで突然どうと倒れたらしい。何かに足をすべらせて、とかじゃなくて本当に突然崩れ落ちるみたいだったんだ、と守本さんは言った。
「意識は?」
「さっき救急車の中で気がついて、どうしても雄士くんを呼んでくれって。頼みがあるって言ってるんだ」
「今、これどこからの電話なんですか?」
「救急車で隣町の総合病院まできて、今、シゲさんは検査してるところ」
隣町なら、近くのバス停から乗れば三駅ちょっとで行くことができる。自分が行って何ができるだろうとは思いつつ、スマホのスピーカーをオンにしてテーブルに置き、手近なリュックサックに財布やスマホの充電器を次々放り込む。
「とりあえずすぐ行きます」
「ありがとう! 助かるよ。銭湯、奥さんと新人のバイトの子にまかせてきちゃったから閉めの作業がちょっと心配で」
守本さんのほっとした声を聞きながら、雄士は夕方に買い物から帰ってきてから脱ぎっぱなしで放ってあったダッフルコートを羽織った。
夜の病院というのは、外側も内側も全体的に青っぽくて水槽の中に沈んでいるみたいに静かだ。消毒液の匂いの強さがそのイメージをさらに強めている。じっとしていたら、壁の四隅あたりからこぽこぽと空気の泡が溢れてきて包まれてしまいそうだ。夜間専用入り口の前でタクシーから降り、三階のナースステーションに雄士が到着した頃には、シゲさんは処置室から病室に移されて、もう目が覚めていた。
「シゲさん!」
今夜は、四人部屋の空きベッドがないということで、個室に通され、病院のパジャマに着替えさせられたシゲさんは、ベッドに横たわり、丸椅子に座った守本さんと話しているところだった。病室に飛び込んできた雄士を見るとシゲさんは、照れ笑いを浮かべた。
「おお、雄ちゃん。すまねえなわざわざ。こんな大ごとにしちまって」
「そんなのいいよ。びっくりした。大丈夫?」
「いやいや、ただの湯あたりみたいなもんなんだけど、倒れた時に頭打っちまってるから一応検査しようってなってさ。二、三日入院だってよ」
「シゲさん、目の周り、明日くらいに絶対すごい痣になるよ。顔から思いっきりどーんていったもん」
帰り支度をしていた守本さんの言葉に、シゲさんが顔をしかめる。
「そりゃ、この色男には大問題だな。おい」
色男かどうかはさておき、見たところ、特に問題はなさそうだ。雄士は、ほっとして、
「それで、頼みたいことって?」
と訊いた。
「悪いな」
シゲさんは、守本さんを振り返ると、
「守ちゃん、忙しいところ付き添ってもらっちゃって本当にありがとな。このお礼はまた改めてきちんとさせてもらうから」
何かあったらすぐに連絡して、と言いながらそれでも一安心した様子で守本さんがばたばたと帰って行くと、急に病室内がしんとした。面会時間はもうとうに過ぎているのだ。遠くで聞こえ始めた救急車のサイレンはどうやらこちらへ向かってくるらしい。住宅街を縫うようにしてだんだん近づいてくるのがわかる。そういえば、俺、救急車ってこれまで一度も乗ったことないかもなあとぼんやりしていると、
「雄ちゃんには悪いんだけど、ちょっと別でどうしても頼みたいことがあってな」
シゲさんが真面目な顔で咳払いをして、鞄から鍵を取りだした。
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