著者の窓 第38回 ◈ 里見 蘭『人質の法廷』

著者の窓 第38回 ◈ 里見 蘭『人質の法廷』
 2018年から23年にかけて、小学館の小説ポータルサイト「小説丸」に連載されていた里見蘭さんのリーガルサスペンス『人質の法廷』(小学館)がついに単行本化されました(2024年7月3日発売)。東京都内で冷酷な女子中学生連続殺人事件が発生。逮捕されたのは現場近くに住む40代の男性でした。彼の弁護を任された新米弁護士の川村志鶴は、彼が自白を強要されたことを知り、冤罪を晴らすために孤軍奮闘しますが、次々に高い壁が立ちはだかります。偏見に満ちたマスコミ報道、長時間勾留で有利に捜査を進めようとする警察・検察、有罪前提の弁護方針を説く先輩弁護士……。起訴有罪率99.9%という現実を前に、志鶴は無罪を勝ち取ることができるのか。日本の刑事裁判の闇をえぐる、迫真のエンターテインメントについて、著者の里見さんにうかがいました。
取材・文=朝宮運河 撮影=松田麻樹

実在する女性弁護士をモデルに生まれた物語

──『人質の法廷』は2018年から23年まで「小説丸」に連載されていた作品です。執筆の経緯を教えていただけますか。

 そもそもは担当編集さんのもとに「面白い弁護士さんがいるけど、小説にしてみない?」という話が持ち込まれたのがはじまりです。それが本書の主人公・川村志鶴のモデルになった須﨑友里弁護士。フリーターをしながらバンド活動をされていたんですが、ある事件をきっかけに警察の対応に疑問を抱き、一念発起してロースクールに入って、弁護士になったという経歴の方です。その話を受けた編集さんが、わたしの名前を思い出してくれた。わたしの『さよなら、ベイビー』という作品を読んで、それなら里見がいいんじゃないかと考えてくださったようなんです。

──ひきこもり青年の子育てと謎解きを描いた『さよなら、ベイビー』や、日常の謎を扱った「古書カフェすみれ屋」シリーズなどのミステリーを手がけてきた里見さんですが、法律の世界を扱うのは初めてですね。プレッシャーはありませんでしたか。

 それほどプレッシャーは感じませんでしたね。というのもわたしは小説家になる前はライターをしていたので、専門知識を持っている方に会ってお話を聞き、それを文章にまとめるという作業に比較的慣れているんです。著名な料理人に取材してテレビ番組のノベライズを書いたこともありますし、マンガ原作者として航空パイロットに取材したこともあります。弁護士ものもその延長で書けるだろうとは思っていました。実際やってみたら、想像を超えるくらいに取材が大変でしたが……(笑)。

──主人公の川村志鶴は、都内の法律事務所に籍を置く駆け出しの弁護士。先輩弁護士や警察が相手でも、おかしいことにはおかしいと言える、まっすぐで揺るぎない心の持ち主です。彼女のキャラクターはどのように生まれてきたのでしょうか。

 取材として何度か須﨑友里先生にお目にかかり、裁判所での公判を傍聴して、わたしが受けた印象を志鶴のキャラクターに生かしていきました。志鶴が揺るぎない信念を持っているのは、まさに須﨑先生がそういう方だからです。それも意識してそうしているというよりは、ごく自然になすべきことをしているという感じなのが印象的でした。当初は弁護士事務所を舞台にした〝日常お仕事もの〟のようなミステリーを考えていたのですが、刑事裁判で検察と真っ向勝負する須﨑先生の姿に感銘を受けて、本格的な法廷ものにしなければいけないと考え直しました。

多くの人が気づいていない「人質司法」の恐ろしさ

──東京都荒川区で発生した女子中学生連続殺人事件。河川敷で発見された2人の少女の遺体には、漂白剤が撒かれていました。マスコミ報道が過熱するなか、現場近くに住む40代男性・増山淳彦が逮捕されます。

 冤罪もののドラマはこれまでにも数多く作られていますが、被疑者がたいてい〝いい人〟なんですよ。しかし現実はそうじゃないことの方も少なくないはずです。この小説ではテーマを際立たせる意図もあって、あまり世間の同情を集めることのない中年男性、最近では弱者男性と言われるような人物を被疑者として登場させました。増山は読者にも共感しにくいキャラクターとして描いているのですが、やりすぎると嫌悪感をもたれてしまうし、そのバランスが難しかったですね。

里見蘭さん

──逮捕の決め手のひとつとなったのが、16年前、被害者の通っていた中学校に侵入したという増山の過去です。

 そういう前科があると世間はどうしても色眼鏡で見ますよね。警察も検察もその過去を、現在の事件に結び付けようとする。今回、取材をしていて初めて知ったんですが、「悪性格の立証」という法律用語があるんです。性格的に問題があるから罪を犯しても不思議ではないというロジックで、検察は有罪に持っていこうとするんですよ。しかし志鶴はそういう見方をしない。インターン時代に師匠から教えられた「弁護士だけは判断してはいけない」という言葉を、彼女は守っているんです。

──逮捕された増山は、執拗な取り調べから逃れるために、やってもいない罪をつい自白してしまいます。その結果、彼は有罪へと続くレールに乗せられてしまう。被疑者を長期間勾留することで自白を強いる、日本の「人質司法」の怖さがリアルに描かれています。

 取材を通して知った人質司法の怖さが、この長い連載を書き続けるモチベーションになりました。現在の刑事司法制度においては、逮捕され勾留決定がなされた時点でほぼ有罪が確定してしまうんですよ。身柄を長期間勾留され、心理的に追い詰められると大抵の人は自白してしまいます。ほとんどカフカの小説のような不条理な状況がごく当たり前に存在していて、その怖さもあまり周知されていない。わたしは普段そこまで真面目なことを考える人間ではないのですが、人質司法の危うさを知ってもらうためだけでも、この小説を書く意味があるなと思いました。

少年マンガのバトルもののような緊迫感

──非協力的な警察組織、被疑者の自宅を取り巻くマスコミ、増山を何としてでも有罪にしようとする検察。事件の弁護を担当することになった志鶴の前には、次々と敵が現れてきます。

 刑事裁判で被告側の弁護人になるということは、ほぼ勝ち目のない戦いに挑むことと同義なんです。次々に敵が現れて、しかもそれはどんどん強くなっていく。エンターテインメント作品として対立軸を強調しているところはありますが、刑事弁護の現実はほとんど少年マンガのバトルものなんですよ(笑)。作中には馴染みのない法律用語がたくさん出てくると思いますが、スリルとサスペンスに満ちた物語として最後まで楽しんでもらえると思います。

──増山の無罪を勝ち取るために奮闘する志鶴は、上司の命令で、田口司という先輩弁護士と組むことになります。田口は増山に罪を認めさせ、減刑を求めるべきという立場で、しばしば志鶴と激しく対立します。

 田口は、志鶴のやり方に批判的な弁護士も出した方がいいという編集さんのアドバイスから生まれたキャラクターです。その言葉の裏には「ライバルが後半で味方になる」という少年マンガの王道パターンをやれ、という意図が隠されているのかなとも思いまして(笑)、堅物の田口にはそういう役割を与えることにしました。

──その他にも刑事弁護のカリスマ・都築賢造や、息子の身を案じる増山の母・文子など、多くのキャラクターが登場します。里見さんが気に入っているキャラクターは誰ですか。

 永江誠という弁護士が結構気に入っています。志鶴の周囲にいるのは熱い弁護士ばかりなので、そうじゃない弁護士も出そうと思って作ったキャラクターですが、文子の代理人になれなかったら被害者家族の代理人になる、といった要領の良さは嫌いじゃないですね。なるべくウザい奴にしようと思って、力を入れて書いたんですが、編集さんにウザすぎると言われて(笑)、単行本にする際にだいぶカットしました。

里見蘭さん

──増山の立場をさらに悪くしているのが、煙草の吸い殻から採取されたDNAです。しかしDNA鑑定もかなり危ういものであることが、この小説を読むとよく分かります。

 有名な袴田事件の資料などを読むと、こんなにいい加減なのかと愕然とします。しかも検察側は鑑定資料を抱え込んで、DNA鑑定から弁護側を締め出そうとする。ことさら警察や検察の悪口を書きたいわけではないのですが、リアルを反映するとこういう展開にならざるをえませんでした。

「異議あり」の一言が書きたかった

──女子中学生連続殺人事件の真犯人は誰なのか。ある関係者からもたらされた情報をもとに、志鶴が事件の真相に迫ってゆく後半の展開にも、手に汗を握りました。

 冤罪事件の恐ろしさのひとつは、警察や検察の思い込みによって、事件解決が遠のいてしまうことです。たとえば1990年に起こった足利事件では事件と無関係の人物が逮捕・起訴され、有罪判決を受けますが、後に冤罪であったことが判明します。その間、真犯人は野放しになっており、今日まで捕まっていない。テレビドラマでは真犯人が見つかって、すぐに被疑者が釈放されるというケースが多いのですが、現実はそこまで甘いものではありません。怪しい人物が浮上したからといって、検察がすぐに補充捜査をしてくれるとは限らない。ここでも志鶴は孤独な戦いを強いられることになるんです。

──クライマックスは約200ページを費やしての公判シーンです。知力を尽くした論戦が、高いテンションで描かれていて圧巻でした。

 日本の刑事裁判は、〝防御する側〟が圧倒的に不利であるという特徴があります。刑事事件の弁護人は99.9%勝てない戦いに挑むことになる。だからこそ物語に漂う絶望感や緊張感は否応なく高くなりますし、サスペンスも生まれてくる。この小説は冒頭からずっとテンション高く書いてきましたが、後半200ページは特に盛り上がっていると思います。

──その圧倒的に不利な戦いの中で、ある人物が「異議あり」と叫ぶシーンも印象的ですね。

 ありがとうございます。この「異議あり」のシーンにたどり着くために、長い連載を書き継いできたような気もします。実はこの「異議あり」は都築のモデルになった高野隆弁護士が、公判で発した一言なんです。検察のある発言に対しての異議だったのですが、傍聴席でそれを聞いた瞬間、雷に打たれたようなショックを受けました。この「異議あり」はフィクションであまり描かれたことがないんじゃないかと気づいた瞬間、物語の全体像がばっと頭に浮かんできたんです。この台詞は志鶴に言わせてもよかったのですが、王道の熱い展開として、彼に言わせてみました。

里見蘭さん

──志鶴は無罪を勝ち取ることができるのか。公判の行方はぎりぎりまで分かりません。

 編集さんのアドバイスを受けて、ややひねりのある結論にしてみました。公判の行方がどうなるか、ぜひ読んで確かめてみてください。ずっと重たい展開が続く物語なので、エピローグにあたる章では未来への希望を感じさせるようなシーンも書き添えてみました。

──足かけ6年にわたる長期連載を終えて、今はどんなお気持ちでしょうか。

 このテーマに関して書けることは書いた、やりきったという気持ちです。感謝しているのは編集部がわたしを信頼して、最後まで自由に書かせてくれたこと。それなりに長い作家生活の中で、ここまで思い通りに書けたのは初めてでした。志鶴のモデルになった須崎さんには法律関係のチェックもしていただき、より精度の高い作品になったと思います。多くの方に支えられて完成した作品だと思っていますね。

──里見さんの新たな代表作の誕生ですね。ではこれから『人質の法廷』を手にする読者に、メッセージをお願いします。

 多くの方が、自分は法治国家に住んでいて、誰もが公正な裁判を受けられると信じていますよね。その常識を覆されたくない人、警察も検察も決して不正を働かないと信じていたい人には、この本はおすすめできません。そうじゃないという人は、ぜひ読んでみてください。


人質の法廷

『人質の法廷』
里見 蘭=著
小学館

 

里見 蘭(さとみ・らん)
1969年東京都生まれ。早稲田大学を卒業後、編集プロダクションに所属し、ライターとして映画、テレビドラマなどのノベライズを執筆。2004年『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。著書に『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『藍のエチュード』『ギャラリスト』「古書カフェすみれ屋」シリーズなど。そのほかに、『小説 ドラゴン桜』『小説 島耕作と四人の女たち』など漫画のノベライズ、『DOLL STAR 言霊使い異本』などの漫画原作も手掛ける。

里見蘭さん

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