伊多波 碧『生活安全課防犯係 喫茶ひまわり』
踏みとどまる
今回警察小説を書くにあたり、思い出したことがある。
数か月前、警察が家を訪ねてきた。
近所の家から庭に排泄物をばらまかれたと通報があり、情報収集しているという。何か知っていたら教えてほしいと言われたが、あいにく何も知らないのでその通り答えた。
すると今度は、犬か猫を飼っているかという。
うちには猫がいる。もしかすると疑われているのかもしれないと思いつつ、正直に答えると、警察官はそうですかとうなずき、それ以上の追及はせず帰っていった。こっそり窓から覗くと、警察官は次に犬を飼っている家に向かった。
犯人が捕まったかどうかも知らないが、その後、警察官が訪ねてくることはないので、どうやら疑いは晴れたらしい。
何年か前には、やはり近所で空き巣騒動が起きた。台風の後には屋根詐欺と思われる怪しいセールスもやってくる。こうして考えると、犯罪は思った以上に身近なところで起きている。
犯人もすぐ傍にいるのかもしれない。
よくテレビで犯罪者の近所の人が「そんな人には見えませんでした」と答えているが、そんなものだと思う。傍目にはごく普通に見える人も、ときに犯罪を起こす。
この小説では、新聞の三面記事として扱われるような、個人的な犯罪を扱っている。出てくるのは一見どこかにいそうな、犯罪とは縁遠そうな人ばかりだ。
そういう真面目な人も、ときとして罪を犯すことがある。
もちろん事情はある。理由を聞けば同情もする。自分の身に置き換えても、どうすれば良かったのかわからない。そうだとしても実際に罪を犯せば知り合いに「そんな人には見えなかった」と言われ、輪の中からはじき出されるのが世の常だ。
いくら深い事情があったとしても、大事な誰かのためだったとしても、犯罪者になるとその後の人生に暗い影が落ちる。反省して罪を償っても、取り戻せないものがある。
できれば思いとどまり、他の解決策を探ったほうがいいのだが、追いつめられて理性を失いかけている人に倫理や道徳を説いたところで効かなさそうだ。
では、どうすればいいのか。そんなことを考えながら今回の小説を書いた。
万人に効くような良案は思いつかないけれど、辛いときでもお腹は減る。少なくとも、食べている間は今の世界に踏みとどまっていられる。
伊多波 碧(いたば・みどり)
1972年、新潟県生まれ。信州大学卒業。2001年、作家デビュー。23年、「名残の飯」シリーズで、第12回日本歴史時代作家協会賞シリーズ賞を受賞。おもな著作として、『裁判官 三淵嘉子の生涯』『リスタート! あのオリンピックからはじまったわたしの一歩』『夏がいく』などがある。
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『生活安全課防犯係 喫茶ひまわり』
著/伊多波 碧