週末は書店へ行こう! 目利き書店員のブックガイド vol.176 宮脇書店青森店 大竹真奈美さん
朝の台所で、耳を澄ます。
炊飯器の稼働音。
ボイラーの音。
電気ケトルの中の水が激しく沸騰する。
近づく足音と、「おはよ」。
「おはよう、今日は雪だよ」
しんしんと降る雪が生みだす静寂。
もしこの音のどれもが聞こえなかったら。炊き上がりを知らせるメロディ音も、カチッとスイッチが戻る沸騰後の合図も聞こえない。大切な家族の声も耳に届かず、冬の訪れの静けさも感じられない。
音のない世界。少し想像してみても、どこかにとり残されたような不安を感じる。
90年代に、聴覚障害のある人との純愛ドラマが大ヒットし社会現象を巻き起こした。近年もいくつかそういったドラマが流行し、聴覚障害に意識が向いたり、手話を学ぶ人たちもいたようだ。
映画『Coda あいのうた』が多くの反響を呼んだことなどで「コーダ」という言葉を耳にした人もいるだろう。Coda(コーダ)とは Children of Deaf Adults の略称で、耳が聞こえない、または聞こえにくい親のもとで育つ子どもの通称である。
『音のない理髪店』の主人公、五森つばめの父・海太と伯母の暁子が、そのコーダにあたる。祖父母はろう者、祖父は日本で最初のろう理容師だ。
小説家のつばめはデビュー作以後、スランプに陥っていたところ、編集者に祖父の話を書くことを勧められる。自分の生まれる前に亡くなった祖父のことを、父や伯母、祖母を訪ね、つばめは小説を書くために調べていく。各々口にしたくない過去や、封印しておきたいこともある。それでも真剣に向き合い続けるつばめに、次第に声が重なっていく。親子3代にわたって想いを繋いでいく人間ドラマに胸が熱くなる。
日本初のろう学校理髪科の卒業生第1号で、理髪店を開業した最初のろう者である祖父の半生を辿るストーリーは、読んでいて、差別や偏見に強い憤りを感じたり、己の無知に打ちのめされる部分もある。
実はこの物語は、作者自身の実話に基づいており、作者の祖父がモデルとなっている。未来へと想いを繋ぎ、作家としてそれを伝えたいという強い思いに、心を揺さぶられる。
耳が聞こえないということは、色々と負担であるだろうが、使う言語が日本語ではなく、手話などの視覚言語だというだけであって、はじめからできないと決めつけられたり、断念させられたりするのはおかしなことだ。たとえ耳が不自由でも、チャレンジする自由はあるし、成し遂げることだってできる。
聴覚障害の「障害」というのは、耳の聞こえない人たちに寄り添う心の配慮の足りなさ、整えきれていないこの社会の環境にこそ存在するのではないのだろうか。
溝を埋めて寄り添い歩み続けることで、新しい道を踏み固め、新たにその先にも続いていくことを願ってやまない。
音のない世界。思えば、文字を連ねた本にも音はない。それでもこんなにも心に響くのだ。もっと本にできることを信じたい。諦めたくない。この作品はその想いを繋ぐ架け橋となると信じている。
あわせて読みたい本
耳の聞こえない親の元で育つ、耳の聞こえる子ども「コーダ」である作者が、耳の聞こえない人の置かれている状況、受けてきた差別や周りの偏見、聞こえない親と聞こえる子どもとの間で起こりうる出来事を、コーダの視点から綴ったノンフィクション。聞こえない世界の現実に触れ、理解を深める。障害を障害としない、不便のない社会を目指すために、まずは知ることで歩み寄る。その一歩のために優しく手を差し伸べてくれるような一冊。
大竹真奈美(おおたけ・まなみ)
書店員の傍ら、小学校で読み聞かせ、図書ボランティア活動をしています。余生と積読の比率が気がかり。