著者の窓 第5回 ◈ 五十嵐 大 『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』
五十嵐大さんの自伝的エッセイ『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』(幻冬舎)が静かな反響を呼んでいます。聴覚障害者である両親に愛情を注がれ、幸せな幼少期を送っていた五十嵐さん。しかし自分の家族が〝ふつう〟と異なっていることに気づき、大好きだった母すら疎ましく感じるようになる──。耳の聴こえない両親に育てられた子ども=「コーダ」(CODA/Children of Deaf Adults)としての体験を率直に綴り、聴こえる世界と聴こえない世界を橋渡しする胸を打つ一冊について、五十嵐さんにインタビューしました。
ネット上の反響に背中を押されて
──これまで著名人のインタビューや書評を中心に執筆してきたライターの五十嵐さんですが、近年は「コーダ」であるご自身の体験についても積極的に発信されていますね。
少し前まで、自分について書くつもりは一切ありませんでした。ライターはあくまで裏方で、作家さんやタレントさんの言葉を読者に届けるのが役目だと思っていたんです。しかし特別著名でない人の言葉でも、読み手の心に響いたり、人生に影響を与えたりすることもある。さまざまなエッセイや記事に触れるうち、そう考えるようになりました。自分は耳の聴こえない両親に育てられるという〝ふつう〟とは異なる人生を歩んできた。それを公にすることで、世界でたった一人かもしれないけど、誰かに寄り添えるかもしれない。そんな思いから、ウェブ媒体の「ハフポスト」で自分と家族について書くようになりました。
──二〇一九年に公開された「耳の聴こえない母が大嫌いだった。それでも彼女は『ありがとう』と言った。」という記事は、ネット上で大きな話題となりました。
母と成人式のスーツを買いに出かけた帰り道、電車内で手話を使っていたら、母にありがとうと言われた、というエピソードですね。無名のライターのエッセイなんて誰も読まないだろうと思っていたら、予想をはるかに超える反響があって驚きました。共感した、励まされた、という声はもちろんですが、知らなかった世界を初めて知ることができた、という声も嬉しかった。コーダとしての体験を書くことは、聴こえる世界と聴こえない世界を結ぶことになるかもしれない。そんな思いから発信してきた記事の数々が、今回の単行本のベースになっています。
──本書では五十嵐さんの半生が、お母さまとの関係を中心に綴られます。母と子というテーマは、どのように決まったのでしょうか。
自分の人生は、母親の存在なしでは考えられない。僕の半生を書いたエッセイが、母と息子のストーリーになるのは必然でしたね。うちは両親とも聴覚障害者ですが、父が中途失聴者なのに対して、母は生まれつき音のない世界に生きています。おそらく父と比べても、母の方がより困難を抱えて生活していると思う。僕はそんな母が大好きで、守りたいと思っていたのに、何度もひどいことを言ってしまった。でも僕を見捨てることなく、ずっと大切に思ってくれていた。この本では母の生きづらさだけでなく、強さや優しさについても書きたいと思いました。
あんなに好きだった母が、疎ましくなった
──海沿いの小さな町で、ご両親に愛情を注がれた子ども時代。しかし周囲の人びとの言動によって、五十嵐さんは障害者の子どもであることを強く意識させられてゆきます。
意識するようになったのは、小学校に入ってからです。授業参観日にお母さんたちが来ても、うちの母だけは先生が何を言っているのか分からない。遊びに来たクラスの友だちには「お前んちの母ちゃん、喋り方おかしくない?」と言われてしまう。そうしたことの積み重ねから、次第に母の存在を疎ましく感じるようになりました。参観日にも来てほしくないし、家に友だちが来た時も顔を出さないでほしい。今にして思うと、なんてひどいことを言ってしまったんだろうと思います。子どもだったんですね。
──家族旅行の誘いを断ったり、受験に失敗し「こんな家に生まれてきたくなかった!」と当たり散らしたりというエピソードから、当時の苦しい胸のうちが伝わってきます。こうした記憶を掘り起こすのは、辛い作業ではありませんでしたか。
辛かったです。何か所かこれはきついぞという章があって、そのたびに書く手が止まりました。でも事実であるなら、汚い部分、醜い部分も書かなければいけない。僕がこのエッセイで書きたかったのは、聴こえない親とコーダがどんな体験をしてきたかです。それによって読者の心を動かし、社会にほんのわずかでも影響を与えられたらいい。たとえ五十嵐大は最低なやつだと思われようとも、きれい事で済ませるわけにはいきませんでした。
──近所の人たちから向けられた視線も、五十嵐さんにはプレッシャーだったそうですね。
気にかけてくれていたのでしょうが、どこに行っても「可哀想な家の子」という扱いをされるのが嫌でした。うちは変わっているかもしれないけど、可哀想な家じゃない、とそのたびに思っていましたね。障害者に対して偏見を持っている人もいたし、好奇心をむき出しにしてくる人もいました。どう考えてもうちは〝ふつう〟の家族ではなかったので、噂の的になって不思議ではないんですけど(笑)。ただそう思えるようになったのは最近で、当時はどうして放っておいてくれないんだ、という悔しい思いでいっぱいでした。
──〝ふつう〟とは異なる五十嵐家の様子については、昨年十月に出されたエッセイ『しくじり家族』(CCCメディアハウス)にもユーモアを交えつつ、詳しく書かれていますね。
祖父が元ヤクザで、祖母が宗教の熱心な信者、両親は耳が聴こえない。こんな家族はなかなかいませんよね。祖父がお酒を飲んで大暴れするとか、祖母が宗教の勧誘で僕の友だちの家まで行ってしまうとか、毎日のようにトラブルが起こって、心の休まる暇がありませんでした。この家にいる限り、自分の人生を舵取りすることなんて不可能。それが嫌なら家を出て、経済的に自立するしかないと思いました。「家族がああなんだから、あなたはちゃんとしないと」という周囲のプレッシャーも辛かったし、誰も僕を知らない世界でゼロから人生をやり直したかったんです。
人生にぱっと明かりが灯った瞬間
──十代で役者を目指した後、飲食店勤務などを経て東京へ。やがて編集者・ライターという仕事に出会います。何かを表現したい、という思いがあったのでしょうか。
心の中にずっと晴れないモヤモヤがあって、表現として吐き出したいと思っていました。ものを作る人になれば、周囲からすごいと言ってもらえる。「障害者の子なんてろくなものにならない」と言った近所の人たちを見返してやれる。そうした動機もありましたね。高校を出て役者を目指したのですが、芽が出なくて二年で挫折してしまった。一体自分には何ができるだろうと考えて、思いついたのが文章による表現でした。絵も描けない、歌も歌えない自分でも、文章なら書けるかもしれない、というくらいの気持ちで、まずは都内の地域情報誌を発行している会社に入りました。それが甘い考えだったことは、すぐに判明するわけですけど(笑)。
──東京で手話サークルに参加した五十嵐さんは、コーダという概念に初めて触れ、自分は孤独ではなかったと知る。五十嵐さんの人生の大きな転機ですね。
手話サークルで知り合ったSちゃんという聴覚障害者の女性に、「五十嵐くんはコーダなんだよね」と言われて、コーダという言葉を初めて知りました。耳の聴こえない親から生まれた子どもを指す言葉で、アメリカでは研究が進んでいる、日本だけでも二万二千人のコーダがいる、と知って本当にびっくりしたんです。それまで自分の苦しみは、世界の誰とも共有できないものだと思っていました。でも同じような境遇にある人が、日本だけでもたくさんいる。そう思ったらすごく勇気づけられたんです。まるで人生にぱっと明かりが灯ったような瞬間でしたね。
──現在は聴こえない親を持つ聴こえる子どもの会「J-CODA」に加わり、聴覚障害者やコーダへの取材を重ねています。「コーダのライターとして文章で世界を変えていく」という一文に、五十嵐さんの決意が滲んでいました。
社会的な活動をしているコーダにも、いろいろなタイプがいます。大学で専門的にコーダを研究している人もいれば、手話通訳士として地域の聴覚障害者に貢献している人もいる。自分はライターなので、スポットライトが当たりにくいコーダの存在を、広く社会に伝えていけたらと思っています。僕は母に何度もひどい言葉をぶつけてしまいましたが、多くのコーダが同じような経験をしているようで、「記事を読んで励まされた」というメッセージをよくもらいます。以前は受け入れられなかったコーダである自分を、今ではやっと肯定できるようになりました。
〝いない者〟とされている人たちのことを書く
──この本の執筆中、五十嵐さんは実家に戻って、お母さまに謝罪したそうですね。それは何に対してだったのでしょうか。
これまで母にしてきた、すべての行いに対してです。暴言を吐いたり、傷つけるような態度をとったり。許されないことをたくさんしてきましたから。でも母は、謝る必要なんてない、あなたの気持ちは分かっていたからと言うんです。すごいな、この人には敵わないな、と思いましたね。その日は二人とも号泣しちゃったんですが、母の夢を初めて聞くことができました。母ももう六十代後半ですが、ある大きな夢を持っていた。その夢の実現のため、僕も力になりたいと思っています。
──五十嵐さん自身はどんな夢がありますか。
両親と旅行をしたり、ご飯を食べに行ったりしたいですね。僕が両親と出かけるのを避けていたせいで、うちのアルバムには思い出の写真がないんです。今からでも、家族の思い出を作りたいと思います。手話ももっと学習して、彼らの「第一言語」である日本手話でたくさん会話をしたいです。
──この本は実家のお母さまも読まれているのですか?
ネットの記事は読んでくれているようですが、本はまだ送っていません。帯に「母が大嫌いだった」とありますし、誤解させてはいけないので、タイミングを見て直接手渡したいと思っています。去年帰省した際に、母とのことを本に書くということは伝えました。そしたら「自慢の息子だ」と大喜びしてくれました。子どもの時から一貫して、母は僕の味方だったんだ、とあらためて感じました。
──五十嵐さんの活動によって、コーダへの認知度は高くなっているように思います。ライターとしての今後の展望を教えてください。
社会から無視されている人たち、いない者とされている人たちの声を、すくいあげるような仕事をしたいと思っています。昨年地元の友人たちと話していて、その場にいた全員が〝LGBT〟という単語を知らないことに驚きました。社会的マイノリティの存在って、見ないふりをして生きていくことも可能なんですよね。でも今の時代、それではいけないと思う。さまざまな生きづらさを抱えている人の存在を、今後もエッセイやノンフィクションを通して発信していきたい。たとえば「隣に聴こえない人がいるかも」と想像するだけで、見える世界は変わってくると思うんです。
『ろうの両親から生まれたぼくが
聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』
幻冬舎
五十嵐 大(いがらし・だい)
ライター、エッセイスト。1983年宮城県出身。高校卒業後、さまざまな職を経て、編集・ライター業界へ。2015年よりフリーライターに。自らの生い立ちを活かし、社会的マイノリティに焦点を当てた取材、インタビューを中心に活動する。2020年10月『しくじり家族』(CCCメディアハウス)でエッセイストデビュー。
(インタビュー/朝宮運河 写真/田中麻以)
〈「本の窓」2021年5月号掲載〉