▽▷△超短編!大どんでん返しExcellent▼▶︎▲ 梓崎優「エール」

大どんでん返しExcellent第25回

 夏の強烈な日差しが、インターハイの舞台を輝かせている。一周四百メートルの赤茶色のトラックには白いハードルがずらりと並び、号砲の鳴る瞬間を今か今かと待ち構えているように見える。

 鉢巻の位置を整えようとして、私は指の強張りに気づいた。ぱたぱたと手を振ってみるが、強張りは解けない。緊張しているのだと気づいた瞬間、先輩の言葉が頭を過ぎった。

 ──あなたの仕事は、せっかくの舞台を思い切り楽しんでくること。

 二年生ながら陸上部唯一のインターハイ出場が決まったとき、同じ種目の先輩がそう言って、私の背中を押してくれたのだ。

 ──緊張で頭が真っ白なんて、もったいないことしちゃ駄目だよ。大丈夫、代わりに私が緊張してあげるから。

 ──何で先輩が緊張するんですか。

 ──そりゃあ、応援しているからよ。あなたの努力を知ってるから。報われてほしいと思ったら、どきどきするじゃない。

 先輩は満面に笑みを浮かべ、胸がいっぱいで礼も言えない私の肩をそっと叩いた――

 私はぐっと力を込めて、鉢巻を結び直す。

 先輩の言葉は正しい。

 緊張なんて観客に任せて、出場者は出られなかった仲間の分まで、楽しんでこないと。

 そうだよね、と問いかける心持ちで、私は観客席の手摺りの向こうに目を向ける。最後までインターハイ出場を競い合った同級生は、顔をうつむかせているせいで、表情がうかがえない。

 ──おめでとう。やっぱり才能がある人は違うね。

 先輩が祝福してくれたのと同じ日、彼女は冷たい声音でそう言い放った。

 あのとき、私はどんな言葉を返すべきだったのだろう。

 自分に才能があるなんて、私は露ほども思っていなかった。

 四百メートルハードルは、トラック競技の中でも総合力を試される種目だ。スタート直後のスプリント、カーブを曲がりながらハードルを越えつつ、次のハードルまでの歩数を調整する技術、最後までペースを落とさないスタミナ──そうしたすべてが求められる。

 高校に入学し、初めて四百メートルハードルに挑戦したときは散々だった。スタートダッシュに失敗し、ハードル間のストライドは滅茶苦茶で、最後は体力が持たず、ハードルを越えることさえ覚束なかった。そんな私のはるか前方で、彼女は一着でゴールし、先輩たちの称賛を一身に浴びていた。

 そう、才能があるとすれば、それは彼女のほうだ。彼女もまた、四百メートルハードルを走るのは初めてだったのだから。彼女がハードルを越える姿は優美だった。彼女は瞬く間に私の代のエースになり、新人大会でも好成績を記録した。

 才能がある人は違う──そう考えて諦めれば楽だったのかもしれない。でも、私にはできなかった。彼女の走りを見て、同じようにトラックを駆けてみたいと思ってしまった。

 放課後は友だちと遊び、大好きなスイーツを思う存分食べて、ときには恋愛もする。そんな学生生活に憧れる気持ちに蓋をして、私は来る日も来る日も練習に明け暮れた。どうすれば、減速せずにハードルを越えられるか。どのタイミングでハードル間の歩数を切り替えれば良いか。肌が荒れても、成績が下がって親に怒られても、私は練習を欠かさなかった。

 そうして走り続けた結果、私は二年生の夏、彼女に競り勝ち、インターハイの出場権を得た──

「予選、第一組の選手を紹介します」

 アナウンスの声に、我に返る。第一レーンから順に選手の名前がアナウンスされ、そのたびに競技場は歓声に包まれる。

「三レーン、金山さつきさん、深山高校」

 深山高校の応援団による拍手と声援が、競技場に響く。声援に合わせて、私は手を振る。その瞬間、彼女と目が合った。彼女は私を見つめたあと、確かに口元を綻ばせた。

 ──やっぱり才能がある人は違うね。

 あの言葉が本心ではなかったことを、今の私は知っている。

 私に負けた次の日から、彼女が自主的に朝練を始めたことを、先輩が教えてくれた。

 ──あなたの努力が、火をつけたみたいね。

 先輩の視線の先で、彼女は黙々とハードルドリルに取り組んでいた。その姿を見て、私は身が引き締まる思いがした。来年になれば、彼女はもっと速くなる。私も彼女に負けないくらい、努力しないといけない。

「On your marks.」

 アナウンスが、スタート位置に着くことを促す。

 歓声が収まっていく中、各レーンの選手がスターティングブロックに足を置く。私は強張った手をぐっと握り、ゆっくりと開く。

 努力は必ず報われるものではないけれど、努力しなければたどり着けない場所はある。

 私は努力した。だから、インターハイに出るためにどれだけの努力が必要だったのかを知っている。

「Set.」

 だからこそ、叶うなら、努力が報われてほしいと思う。

 ──そりゃあ、応援しているからよ。あなたの努力を知ってるから。

 一瞬の静寂のあと、号砲が鳴った。

「ファイト!」

 私は緊張を押し退けるように声を張り、エールを送った。

 今夏、高校生活最後の夏に、優美な走りで私を破ってインターハイ出場を決めた同級生、金山さつきに。

  


梓崎優(しざき・ゆう)
1983年東京都生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。2008年、短編「砂漠を走る船の道」で第5回ミステリーズ!新人賞を受賞する。選考委員から激賞された受賞作を第一話に据え連作化した『叫びと祈り』を10年に刊行。同書は《週刊文春》ミステリーベスト10国内部門第2位をはじめ各種年間ミステリ・ランキングの上位を席巻し、2011年本屋大賞にノミネートされた。13年に初長編となる『リバーサイド・チルドレン』を発表し、翌年に第16回大藪春彦賞を受賞。近著に『狼少年ABC』がある。

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