「推してけ! 推してけ!」第66回 ◆『ハザードランプ』(芦沢央・著)

評者=千街晶之
(ミステリ評論家)
日常の危うい裂け目から見えてくる真実
日常とは、かくも危ういものなのか。正しさとは、かくも脆いものなのか──芦沢央の短篇集『ハザードランプ』を読んで、そんな思いに心震える読者は多いだろう。
著者の一つ前の短篇集『あなたが正しくいられたとき』も、日常に潜む秘密を描いた作品が多かったが、本書は犯罪が絡む話もあるものの、より日常寄りの話が多い。それでいて、『あなたが正しくいられたとき』の表題作に通じるテーマも扱われている。それは、自分のやってきたことは、自分の生き方は、本当に正しかったのか……という問いだ。
日常が背景の話が多いからといって、所謂「日常の謎」テーマの連作かといえば、それは違う。「日常の謎」の場合、日々の平穏さの中から異物のように芽吹いた奇妙な謎にロジカルな解答を与えるけれども、本書の収録作では、謎が謎としてわかりやすく提示されるわけではない。普通の人々の平凡な日常の物語を読んでいるつもりでいると、いつの間にか伏線が罠のように張りめぐらされ、主人公が──ひいては読者が気づいていなかった真実が騙し絵のように見えてくるのだ。普通でも平凡でもない、どこか歪な人間の思考が。そして、登場人物たちの運命の明暗を分けるものは何なのかを、他人事としてではなく考えさせられるのだ。
例えば表題作は、主人公の麻千子が、義理の息子・健太を迎えに行くところから始まる。健太は夫の前妻の子で、勤め先の近くで一人暮らしをしており、麻千子とは数回しか顔を合わせたことがないという希薄な関係だ。そんな彼をどうして迎えに行くことになったのか──というところから話は転がりはじめるのだが、二人の会話を通して、それまで麻千子には見えていなかったものが浮かび上がってくる。
本書は夫婦関係を描いた短篇が多いが、「念のため」には二組の夫婦が登場する。主人公である浩介とその妻、そして浩介の老いた両親だ。同窓会に参加するため里帰りした浩介は、両親の様子に違和感を覚える。父はちょっとした出費を惜しみ、行きつけの床屋に顔を見せなくなっていた。そして母は新たに仕事を始めており、母が働くことを快く思っていなかった父もそれを黙認している。両親の心境にどんな変化が生じたのか。浩介はある真実に辿りつくが、そこから思いがけない展開へと暗転するのが恐ろしい。
「父の輪郭」と「知らない目」も夫婦の物語だ。前者の主人公・直美は、二年前に父を、つい最近になって母を亡くした。要らない物をすぐ捨てる父と、正反対の性格の母。果たして、この夫婦の実像はどんなものだったのか。一方、後者は WEB マーケターの夫・周平と、看護師の妻・有子の何気ない会話から始まるが、そこから薄墨のように滲む違和感が、やがてある真実をどす黒くかたちづくってゆく。
「車止め」は、本書の中では一番ミステリらしいミステリだ。主人公の倫也は友人から宅配のアルバイトを紹介される。顧客の多くは独居老人だ。雇い主から仕事ぶりを褒められ、報酬も上げてもらって満足していた倫也だが、ある日、彼が担当していた老人の家に空き巣が入ったことを知る。このあたりで結末を予想する読者もいそうだが、倫也が突き落とされるのはもっと空恐ろしくも不可解な地点だ。
「お守り」は本書で唯一の書き下ろし作品。主人公の葵は、悪気なく発した言葉によって人を戸惑わせてしまうことがある。そんな彼女は小学生の頃、ゆづきさんという女性に出会っていた。彼女は葵のメンターのような存在だった。そして今、葵は当時は気づかなかったゆづきさんの真実に思い当たる。本書の収録作はいずれも最後のセンテンスが見事だが、特にこの作品は完璧と言っていいだろう。
本書はこれまでの著者の短篇集と比較してもいかにもミステリらしい作品は少ないが、にもかかわらず、収録作はいずれも紛れもないミステリである。芦沢央はこういう設定でもミステリを書けるようになったのか──そんな感慨を抱くほど、本書には著者の作家としての凄みのある成長が詰まっている。
千街晶之(せんがい・あきゆき)
ミステリ評論家。日本推理作家協会会員。多数の推理小説に巻末解説を寄せている。主な著書に『怪奇幻想ミステリ150選』『水面の星座 水底の宝石』『幻視者のリアル』『ミステリ映像の最前線』『ミステリから見た「二〇二〇年」』、共著に『21世紀本格ミステリ映像大全』がある。






