◎編集者コラム◎ 『ボンベイ、マラバー・ヒルの未亡人たち』著/スジャータ・マッシー 訳/林 香織
◎編集者コラム◎
『ボンベイ、マラバー・ヒルの未亡人たち』著/スジャータ・マッシー 訳/林 香織
「Good thoughts, good words, good deeds」(よき考え、よき言葉、よき行いを)
こんな言葉をご存じでしょうか。伝説のバンドQueenを描いた映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観た方なら、聞き覚えがあるかもしれません。映画の中でフレディ・マーキュリーが父親から口を酸っぱくして言われるゾロアスター教の三徳で、クライマックス、ライヴエイドの会場に向かう前に実家に立ち寄ったフレディが父親と和解する、あの名シーンに繫がる言葉です。映画公開以降、フレディがパールシーという少数民族の出身だったことが広く知られるようになりましたが、実は本作『ボンベイ、マラバー・ヒルの未亡人たち』の主人公パーヴィーンもパールシーの女性。物語の中にもこの三徳がしっかり描かれます。
パールシーとは、千年以上前にイスラム王朝の侵攻によってペルシャを追われ、インド西部に移住した拝火教・ゾロアスター教徒のこと。本作の舞台は1921年のインドのボンベイ(現・ムンバイ)、ケンブリッジ大学で法律を学んだパーヴィーンは、街で初にして唯一の女性弁護士として、父親の法律事務所で働いています。様々な信仰、多様な文化が存在した当時のインドですが、女性差別も今以上に根強く、当時としては進歩的な家庭に育ったパーヴィーンも、女性故に法廷に立たせてもらえません。ある日彼女は、ムスリムの実業家の遺産管理のため、高級住宅地マラバー・ヒルの屋敷に暮らす三人の未亡人たちに会いに出かけます。未亡人たちはイスラム教の厳しい戒律によって、屋敷内の婦人居住区域に隔離され、男性と接触が出来ないのです。社会から隔離され、監禁も同然の不自由な暮らしをしている彼女たちにパーヴィーンは心を寄せます。実は彼女自身も、かつてパールシーの古い慣習によって、婚家で似たような辛い経験をしていたのです。そして彼女が屋敷を後にした直後に密室殺人が起き、パーヴィーンはイギリス人数学教師の親友アリスとともに女ホームズさながら捜査を始めます。
軽いタッチのコージーミステリながら、アガサ賞やメアリー・ヒギンズ・クラーク賞を受賞し高く評価されたのは、英国系アメリカ人の著者が自分自身のルーツのインドにこだわり、徹底的な取材によって当時の活気溢れたボンベイの街や、パールシーやムスリムの独特で豊かな文化を鮮やかに再現した点にあるのかもしれません。特に次々に登場するパールシーの伝統料理は本当に美味しそうで、読みながら垂涎しそうになることたびたび。
そしてもうひとつの大きな魅力は、様々な差別に抗い道を切り開こうとするパーヴィーンたちの姿。残念ながら、医大の入試不正や強姦事件のもみ消しなど、物語から百年後の今も女性が理不尽な差別を受けることは少なくありません。そんな中で、百年前の女性たちが自分の力で道を切り拓こうとする姿は、映画『ボヘミアン・ラプソディ』のフレディが世界中のマイノリティに勇気を与えてくれたように、読む者に困難に立ち向かう勇気を与えてくれるはずです。
家で過ごす時間が長い今こそ、遠い百年前のインドにタイムスリップして、パーヴィーンたちと一緒に冒険してみませんか。
──『ボンベイ、マラバー・ヒルの未亡人たち』担当者より