飯嶋和一『虚空蔵の峯』

田沼意次の登場と郡上騒乱
変革の時は江戸時代に何度か訪れるが、宝暦八年(1758)もその一つに数えられると思う。この年、御用取次の田沼意次が一万石の所領を知行して大名に列せられ、将軍家重から評定所に出て訴訟の審議に加わるよう命ぜられた。評定所は幕閣による最高の審議立案の機関で、そこで決められた事案が将軍に認可されれば幕府法として施行される。意次は、将軍の代理となって幕政問題の審議に立ち合うというきわめて重要な地位を占めることになった。
この時、評定所で審議されていたのが美濃国(現岐阜県)郡上藩での一揆騒動だった。郡上八幡城主の金森頼錦が幕閣への登竜門とされる奏者番となり、ただでさえ藩財政が困窮するなかで交際費等の多額の出費を必要とし、四年前の七月に年貢の増収をはかって有毛検見取法を導入しようとした。それまでは、八十年ほど昔に作成された検地帳をもとに定められた年貢高を毎年納めさせる定免法を採用していた。有毛検見取法は、新たに検地をやり直すようなもので、八十年間に切り開いた田畑がすべて摘発され、農民にとって莫大な増税が目に見えていた。農民側は、宝暦四年八月に新税法撤回の強訴を行い、次いで藩主が在住する江戸屋敷への直訴、ついには老中の酒井忠寄へ駕籠訴を決行した。
宝暦八年七月、幕府は、寺社奉行の阿部正右をはじめ五人の審議係を選出して審理にあたらせるという異例の対応をとった。特に問題となったのが、美濃国の幕府領を支配する笠松郡代の青木次郎九郎が郡上藩領の庄屋たちを約五十キロ離れた笠松まで呼び出し、新税法を受け入れるよう強要して同意させた点だった。そこにいたるまでに、幕政の中枢を担う幕閣の老中・若年寄・勘定奉行・大目付らが関与していた事実が浮かびあがった。田沼意次は、私藩の金森領での税法改変に幕閣や幕府領代官が関与し、郡上藩内を混乱させ農民を窮地に追いやった事を重視し、幕閣でも容赦なく厳正に断罪するよう審議係に命じた。審議の結果、老中本多正珍、若年寄本多忠央、勘定奉行大橋親義、大目付曲淵英元、笠松郡代らが罷免され、藩主金森頼錦は改易されてお家断絶となった。農民側も、死罪十四人、牢死者十九名を出し、処罰された者は数十人の多数におよぶ惨事となった。短期決戦をむねとする農民一揆で足がけ五年におよぶ閗争を支えたものは何だったのか。その奥底に秘められた力を書き表したいと思った。
飯嶋和一(いいじま・かずいち)
1952年、山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞、88年「汝ふたたび故郷へ帰れず」で文藝賞、2000年『始祖鳥記』で中山義秀文学賞、08年『出星前夜』で大佛次郎賞(同年「キノベス!」第1位)、15年『狗賓童子の島』で司馬遼太郎賞、18年『星夜航行』で舟橋聖一賞を受賞。上記以外の作品に『雷電本紀』『神無き月十番目の夜』『黄金旅風』がある。最近作は『南海王国記』(25年8月小学館刊)。



