翻訳者は語る 林 香織さん

連載回数
第25回

翻訳者は語る 林 香織さん

 百年前のインドを舞台に、街で唯一の女性弁護士が密室殺人事件の解決に奔走する『ボンベイ、マラバー・ヒルの未亡人たち』。インド系の親を持つ英国系アメリカ人女性作家が、実在したインド初の女性弁護士たちに着想を得た物語です。歴史小説、フェミニズム小説の側面も持つ本作は、アガサ賞、メアリー・H・クラーク賞を受賞。翻訳者の林香織さんは、当時のインドやヒロインの属する民族に興味を引かれたといいます。


〈優秀だけどドジなヒロインに親近感〉

 原書を読んだ時の最初の印象は、「気軽に楽しめる歴史ミステリ」。もちろんそれだけでなく、いろいろな面を持つ作品なので、様々な読者に楽しんでもらえるのではないかと思いました。

 訳し始めて改めて気づかされたのは、登場人物、特にヒロインの魅力です。ヒロインのパーヴィーンはパールシーと呼ばれるインドの少数民族に属するお嬢さま。その誇りを持ちつつ、自分と異なる文化を持つ人々に対して偏見を持たず、多様性を認めようとします。ケンブリッジ大学出身の優秀な女性だけれど、ドジなところもあって親近感もわき、訳し終える頃には彼女が大好きになりました。

〈児童向けの解説書で勉強〉

 もうひとつの大きな魅力は、言語も宗教も異なる人たちが共に暮らしているインドの様子や、日本ではあまり知られていないパールシー文化の描写です。特に印象的だったのが、美味しそうなパールシーの伝統的な料理の数々。バラのシロップ漬けのスイーツや、バナナの葉で包んだ魚料理など、なじみのないパールシー料理がたくさん出てきて読んでいる時は楽しいのですが、調べるのに苦労しました。私の住む名古屋にはパールシー料理を出す店がなく、著者のスジャータ・マッシーさんに尋ねたりもしました。

 歴史的な背景や当時のインド社会の雰囲気がわからないため、訳す前に児童向けの解説書を読んだりもしました。著者にとってインドは自分のルーツで、強い思い入れを感じましたね。生き生きとした街の描写から、現地にも足を運んでしっかり取材したことがわかります。それが日本の読者に伝わればいいのですが。

〈現代を生きる私たちへのエール〉

 本作では、社会から隔離されて暮らすムスリムの未亡人たちや、パーヴィーンたち女性が経験する差別も描かれます。屋敷の中で隔離されて暮らし、男性との接触を許されない女性たちが、ジャリと呼ばれる仕切り壁にあけられた細長い溝を使って男性と書類のやり取りをするなど、初めて知ることばかりで興味深かったです。ムスリムの建築物に、幾何学模様の穴が穿たれた壁があるのはなぜか、この小説を読んで腑に落ちました。

 ボンベイ(現ムンバイ)唯一の女性弁護士ながら、女性故に法廷に立てないパーヴィーンの苦労、隔離されたムスリムの未亡人たちの不自由さ、パーヴィーンの婚家で行われる生理中の女性蔑視の風習など、男性中心の社会で生きる女性たちの苦労があれこれ描かれています。そんな時代に自分たちの力で新しい道を切り開いていった女性たちを通して、著者が現代に生きる私たちにエールを送っているのは確かだと思います。女性だということで様々な理不尽な目にあうことは、残念ながら今も変わりません。そうした中で生きづらさを感じている女性は、勇気づけられるのではないでしょうか。

 けれど、フェミニズム的な面だけを意識して本作を読むのも、何か違うような感じがします。百年前のボンベイにタイムスリップし、美味しそうなパールシー料理を脳内で楽しみながら、多様な民族が暮らす街を疑似体験できます。パーヴィーンと共に笑ったり悩んだり、怒ったりしていただければうれしいです。

〈家事を丸投げして翻訳学校へ〉

 小さい頃は、寝る前に動物や植物の図鑑の解説を読むのが何よりの楽しみでした。ちょっと変な子供ですね。小学校高学年の頃、中学校の教師をしていた父親が、児童向けのシャーロック・ホームズの『踊る人形の秘密』を学校図書館で借りてきてくれました。暗号の解読にのめり込んだのを強烈に覚えています。

 大学を卒業した後、定時制高校の英語教師をしていたのですが、上の娘が生まれた時に、家で英語を使ってできる仕事がないかと考えて軽い気持ちで通信教育を始めました。十年間、教師を続け、退職したあと講師をしながら翻訳の勉強を続けました。そのあと縁があって、娘二人の世話と家事を家族に丸投げし、東京の翻訳講座へ通いました。その講師の先生との共訳本を出させてもらい、二〇〇〇年にようやく単独で訳書が出ました。

 私は登場人物と一緒になって物語の世界に没頭してしまうタイプなので、実は一冊翻訳をすると、すごく疲れてしまうんです(笑)。ですから、私にとっての翻訳の醍醐味は何かと聞かれるなら、訳了後の爽快感、ということでしょうか。
 

ボンベイ、マラバー・ヒルの未亡人たち

林 香織(はやし・かおり)

1958年生まれ。訳書に、L・シェパード『闇と影』、J・ケラーマン『駄作』、M・メイザー『サイバーストーム 隔離都市』など。

〈「STORY BOX」2020年6月号掲載〉
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