源流の人 第7回 ◇ 大江千里 (ジャズピアニスト・作曲家)

ポップスの大舞台から飛び立ちNYで叩き込んだジャズの旋律
人生の第二楽章を奏で始めて聴こえた音、これからのこと

源流の人 第7回 大江千里

渡米十二年。血を入れ替えるような日々を経てキャリアを重ねてきた。ピアニストの原動力と人生の歩み方


 ニューヨーク・ブルックリン区。約二百五十万人に及ぶ区民の約四割が外国生まれという、まさに「人類のサラダボウル」と呼ぶべき街の一角に、大江千里は暮らしている。インタビューはこのコロナ禍のもと、築百年を超えるアパートメントにある彼の部屋と、東京とを結ぶオンラインで行われた。時折、部屋の傍を走る地下鉄高架線や救急車のサイレンにかき消されながら、一万八百四十六キロの距離を跨ぎ、あの特徴的な、言葉を一音ずつ確かめ問い掛けるような、彼の声を聞いた。

「この九月に六十歳を迎えたんです。友達の家を一泊二日で訪ね、バーベキューして祝ってもらいました。還暦といえば一般的に『赤いチャンチャンコ』のイメージ。でも感慨というよりは、年表だけが先に進んでここまで来れたような気持ち」

 好きな音楽を常にアップデートし、自らのタイムコードを常に進めてきた。同様に還暦を迎えてなお活躍する元「ピチカート・ファイヴ」の野宮真貴や、「クレイジーケンバンド」の横山剣らが活躍する姿を見て「勇気づけられた」とも大江は話す。

「もう、『チャンチャンコ』だけのイメージじゃない。六十代は働き盛りです。ただ、今までがむしゃらにやってきたので、一度立ち止まってみるのは正解かなとは思いますが」

 関西学院大学に在学中の一九八三年にデビュー以降、シンガーソングライターとしてポップス界の第一線をひた走ってきた。「GLORY DAYS」「格好悪いふられ方」「ありがとう」などの楽曲は多くの人の記憶に残っている。俳優としてドラマや映画に出演も果たし、幅広い活躍を続けてきた。槇原敬之やKAN、秦基博など、後進の男性アーティストらにも多大な影響を与えた「ポップスの第一人者」が、四十七歳でそのキャリアを捨て、二〇〇八年、ニューヨークの音楽大学に留学を決意。ジャズへの転身は当時話題になった。大江は述懐する。

「あの頃、最愛の母が亡くなり、飼っていた犬が亡くなり、一緒に東京に出てきた友達も亡くなりました。『人生は一度きり』と頭で分かっていても、どこか自分だけは特別に時間があって、何か魔法が起こってずっとこのままでいられるんじゃないかと思っていた。だけどそれは違った。人生の賞味期限が来れば、自分でその長さを選べないことに気付いたのです」

すべての情熱を注ぎ込んだ日々

 世界じゅうから才能が結集するニューヨーク。留学当初の大江はしばらく呆然自失の日々を送る。ポップスの世界で、音楽への追求を続けてきた自負がある。日本では何万人もの聴衆を前に駆け抜けた。そのキャリアが一切活かされない日々。プライドなんてかなぐり捨てて、ゼロから積み上げていかなければならない。

「身に付けてきたものが大きくなってたんですね。リズムも8ビートがメインで手がぐわっと拡がっちゃうような自分流ポップス。そういう『大江千里』を剥がし、純粋な音楽好きな裸のハートになるまで、結構な時間が掛かりました」

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 割と行っちゃえばそこそこできるのかもとどこか密かに自信のあったスウィングは、音の切り際の長さが思うような場所で切れず、どうしても阿波踊りのようにチャッカチャッカ跳ねてしまう。十代の頃からセロニアス・モンクやマイルス・デイヴィスなどの楽曲に接し、「俺なりにジャズを知っているぞ。できないわけない」とタカを括っていたが、そんな傲慢な心は無残に打ち砕かれた。大江は笑って言う。「先生からは『(日本のポップスの)匂いがキツすぎる。常にカメラを意識している。人に見られることを意識しすぎて純粋に音楽だけに向き合っていない』と言われました」

 日本のリズムとは正反対の、いわゆる「裏拍」が主体のジャズ。大江によれば「それこそ血を入れ替えるように」身体に叩き込んでいった。電車に乗った時には吊革に摑まりながら、マイルス・デイヴィスの旋律を口ずさみ、膝をスウィングさせ続けた。周囲の目などお構いなしだ。

 周りの先生や学生からは、「千里は一学期でやめると思っていた」と囁かれながらも、約四年半後、無事に卒業を果たす。大江は言う。「(第二の人生の決断に)いろいろ置いてきたものはあるかもしれない。けれども、僕はもう一回人生を生きたかった。やりたいことに向かって、すべての情熱を注ぎ込んだんです」。どんなに他人から認めてもらえなくても、ジャズと格闘する日々自体が貴かった。映画のなかの役を演じているような気持ちだった。

歌は人生の第一章でやり切った

 卒業の年の二〇一二年、ジャズピアニストとして初めてアルバムを発表。以降、大江自身によるジャズの作曲も始めている。ポップス時代と今とで、変遷はあるのだろうか。問いかけてみると、大江は快活な声でこう答えてくれた。
「引き出しがグーンと増えました。以前なら煮詰まると、感情と集中力と漢気で乗り越えようとしていたんです。『やる気と本気、諦めない気持ちがあれば必ず出来る!』って(笑)。今は少し違う」。ジャズの楽理を活かした旋律やコード進行の選択肢が、理論的に、そして無限に増えていく。「音楽を情熱だけで捉えず、迷った時はドライにその選択肢の中から選びサクサク乗り越えることもよしとするようになりました」。大江はそう胸を張る。

 実は大江は現在歌うことをやっていない。これまで発表してきたジャズの六枚のCDにも彼の歌声はない。奇をてらわず、実直で、言葉の醸す風合いをダイレクトに伝えるあの魅力的な声を、もう一度聴くことは叶わないのだろうか。大江は言葉を選びながら、こう話し始めた。

「僕は聴き手として迷わず、歌が一番好きです。人間のここ(心臓)に一番近い楽器だから。そしてジャンルにかかわらずボーカリストたちは命を懸けてやっている。僕がピアノを今必死になってやっているように。歌うことに関しては人生の第一章でやり切りました。あれ以上の集中力はもう今の僕には歌に関してはないですね」

 ことあるごとに大江が思い起こす言葉がある。それは、母親が生前、大江に対してかけた言葉だ。

「あなたは独特な声質なんだから、それが活きるように他人の百倍、一所懸命練習して丁寧に歌わないといけないよ」

 ジャズへの転身は、大江にとってポップスにピリオドを打ち、第二の人生へと踏み出す大きな決断だった。そのことは、自分自身がしっかり胸に刻んでおかなければならないと念を押す。「ただ」……大江は続けた。

「まどろっこしい言い方をしているようですが、歌っていないわけじゃないんですよ。ジャズピアノのセッションでは、演奏しながらアドリブを常に歌っていないと弾けない。それに僕の作るジャズにはもともと歌詞がある。その景色を伝えるために演奏をしているのです」

 ジャズピアノのセッションでは、アドリブでスキャットをすることもある。大江は柔和な表情で続ける。

「アメリカのコプロデューサー(副プロデューサー)やPRからは、僕がスタジオでハミングとかすると、『やっぱり歌ったらいいのに』って言われることがあります。僕がピアノを弾き始めて、それに合わせてスキャットすると、『ジャズを歌えばいいのに!』って(笑)。でも僕の歌に関する気持ちは想像以上に厳しくて、自分のダメ出しにはもう答えることはできない。実は、やっともう歌わなくていいと解放されてこっちに来たら、今度は歌どころじゃない、騒ぎの違う大変さがピアノにはあった。それはもうアスリートの世界なんですね。今はそれ(ハードな練習)で腕が上がらなくなりながらの、戦いの日々なんです」

今こそ信じられる音楽そのものの力

 ジャズクラブで演奏の経験を重ね、この数年は全米や欧州に活躍の場を拡げてきた。ここに来て、新型コロナの悪夢が起きた。今年二月末、日本で行われていたツアー公演を中断し、ニューヨークに戻った大江が目にしたのは、病院の前に数十台も横付けされた、遺体安置用の冷蔵車の列だった。人通りが途絶え、街じゅうが静まり返るいっぽうで、市民たちが手を取り合って乗り越えようというコミュニティの存在を大江は目のあたりにしたという。「自由に持って行ってよ」とボランティアの人たちに彼らの自宅で穫れたキャベツやジャガイモの入った袋を渡された。「それからもう毎日、コールスロー、ミネストローネ、ポトフの繰り返し(笑)。ありがたいことですよね。心がほっこりする」。オープンエア席限定で再開した店に出向くと、「ハーイ、千里、元気だった?」「生き残っているよ!」「イェーイ! 握手できないから肘タッチね!」との会話が交わされる。

 十月上旬時点で世界最悪の死者数を抱えている米国。ライブは軒並み中止が続き、ブロードウェイは二〇二一年春まで閉鎖を決めるなど、全米のエンタメ界は未曽有の緊急事態が続いている。しかしジャズは「密接」でこそ味わいを増す音楽だ。

「今はまったくノーアイディア。パンデミックの収束後、どうしよう……。『オープンエアのお店の前で演奏しませんか』というお誘いも頂くんですけど、僕のなかでは正直、以前のライブの形態に戻れない気がしています」

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 既に出演が決まっていたフェスやアベニューの担当者らと連絡がつかなくなり、どういうことかと思っていたら、パンデミックで店が開いていない上に、担当者が既に首を切られていた。「今までのほとんどの人間関係が壊れてしまっているんです。米国で頑張って頑張ってようやくグイグイ、食い込んでここまで来たのに、それがまたスタート地点です」

 ただ、いっぽうで揺るぎないものだと信じているものがある。

「それは、音楽そのものの力です。人間が笑って泣いて歌って、前に進んでいくなかで、音楽の役割が消えていくことは無いと思う。お客さんを前にライブができたら素敵なことだけれど、それはもうこれからは叶わないかもしれないけど、毎日コツコツと音楽を作り続け、ピアノの練習も積み重ね、決して止まらないこと。パンデミックは大きな打撃ではあるけれど、逆にライブ以外のアングルから、こういう時じゃなきゃ生まれない面白い切り口を見つけ出していければと思っています」

 淡々と毎日を生きる。「アメリカに来るときに、人生は今日で終わりかもしれない」と思ったこと、今こそそう思いながら生き続けること。大江は言う。「こんなさし迫った状況でも、ユーモアを交え、楽しく人生を生きるのが大切だと思うんです。人生の歯磨き粉の最後の最後まで味わうように」

自分がやってきたことを返したい

 人生のセカンドステージに立った彼が痛感していること。それは、「平均点を取って安全だけを優先してしまうと、夢にはたどり着けない」ということだという。「哀しい法則だけれど、ごっそり大きな大事なものを捨てないと、本当の小さな宝石は見つからない」。たくさんいたはずの音大の同級生のなかで、いま現役でニューヨークに残っている者は意外に少ないと言う。彼らと大江との違いとはどこにあるのか。

「僕は、とにかくニューヨークが無茶苦茶好きなので生き残るつもりで頑張ってきました。もう、キュウキュウ頑張って、やっとここまで来た。まだまだこれから先が長い……、って感じで周りを見渡してみたら『だいぶ仲間たちがいない』。昔から、僕は妄想家で、(ポップスの頃から)『絶対に自分はそこに行くんだ』って思い続けていたんです。布団に入ると、日本武道館の舞台に立ち、最後の最後の鳴り止まぬアンコールの後に泣きながらピンスポットを浴びて歌う歌詞はこれだ、とか思いながら作って歌ったりしていたんです。夢の熱量が半端じゃない」

 自分の人生、イコール音楽。それを全身全霊で念じて生きてきた。だからブレない。ブレるはずがない。

 さらに、ジャズに没頭する日々を送ることで、はからずも、「自分がどれほどポップスを大好きだったか」を知ることができたと言う。それから彼はこんな思いを聞かせてくれた。

「ジャズを通じ、音楽家としての自分の立ち位置を再認識できた部分があるんです。時空がブレずに、神様がまだ僕を生かせてくれるのであれば、(音楽を続けるという)夢を叶えるだけでなく、音楽だけではない今後の人生を通じ、今まで自分がやってきたことを直接人に返せるようになっていきたい」

「本当につらい人が居たら、傍にいてあげる時間を厭わない。これからは、自分の存在が、そうなれるように、人生の歩み方を選択していきたい」

 かつて「向こうみずな瞳」「帰郷」という自身の楽曲の歌詞のように、ともすれば無鉄砲にも受け取れるような、矢のような生き方を選んできた大江自身。それが、共に支え合うこの大都会で精いっぱい呼吸し、身体じゅうの血を入れ替えることで得た、彼なりの新たな境地にも受け取れる。

 活動拠点はこのニューヨークから離れることはないのだろうか。

「そればかりは、神のみぞ知るという感じです。他の街やヨーロッパのいろんな街に行くと、『この街はいいなあ、住める! 住みたい!』って思って、ツアーから帰ってくるとニューヨークの匂いに一瞬は辟易するんです」

 道端で壊れて叫んでいる人がいる。壁という壁には落書きが描かれている。

「なんて下品でクレイジーでなんでもありな街だろうと思う。それでも、十分に時が経てば心地よく落ち着いてしまう。やっぱりこの街は僕にとって『ホーム』だと思う」

 未曽有の事態にあって戦々恐々とし、犯罪も格段に増えているニューヨーク。

「皮肉なもので、こういう事態になると人がタフになる。音楽だって輝くんです。

 十年後、七十歳になった時にも今のスピードで音楽を追求し続けていれば、最高だと思う。そんなふうに日々続けて前に進めること自体が、僕にとっては既に夢ですね!」

 パトカーのサイレンに音声をかき消されながらも、大江は笑顔でそう言い切った。

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ダックスフンドの女の子「ぴーす」とともに。一緒に海を渡ってきた頼もしい相棒だ。


大江千里(おおえ・せんり)
1960年生まれ。関西学院大学在学中の1983年、「ワラビーぬぎすてて」でシンガーソングライターとしてデビュー。「十人十色」「REAL」「YOU」と秀作を発表し、「GLORY DAYS」「あいたい」「格好悪いふられ方」「ありがとう」などがヒット。歌手活動と並行し、「君が嘘をついた」(フジテレビ)、「パパとなっちゃん」(TBS)、「十年愛」(同)などのドラマや、「君は僕をスキになる」などの映画に俳優として出演。2008年、ジャズピアニストを目指し、ニューヨークの音楽大学「THE NEW SCHOOL FOR JAZZ AND CONTEMPORARY MUSIC」に入学。2012年、ジャズピアニストとしてデビュー。2020年までに6枚のアルバムを発表し、米国各地や欧州などでライブを行っている。コロナ禍のもとで製作した「Togetherness」は、AP通信の「コロナ禍の40曲」に選ばれた。

(インタビュー加賀直樹 写真Jonas Gustavsson、松田麻樹)
「本の窓」2020年12月号掲載〉

翻訳者は語る 金原瑞人
沢野ひとし『ジジイの片づけ』/モノをどんどん処分すれば、人生の悩みまでも薄らいでいく