「推してけ! 推してけ!」番外編 ◆『スクリーンが待っている』(西川美和・著)

「推してけ! 推してけ!」番外編 ◆『スクリーンが待っている』(西川美和・著)

評者・北村 薫 
(作家)

創造の聖域をかいま見せてくれる本


 この本の中心をなしているのは、著者が、映画『すばらしき世界』をいかにして完成させたか――その経過を語る文章です。

 今まで著者は、オリジナル長編作品を五本作り上げ、それぞれ高い評価を得て来ました。西川はいいます。原作という《模範解答》があると、《映画は分が悪い》。全くです。ほとんどの場合、そうなります。

 しかし、ごくごくまれに、もうひとつの模範解答に出合うこともあります。かなり前のことになります。前日録画したテレビドラマを座椅子に座って観始めました。数分で、

 ――今、奇跡を目にしている。

 と思い、もたれていた背を座椅子から離しました。最後の画面、黒地の中を上へと流れる白い文字の列の中に《演出 西川美和》という六文字を読みました。太宰治の『駈込み訴え』でした。

 凡庸な作り手なら、手法に工夫をこらしても、あの鮮烈な作品をなぞるだけになってしまう。西川美和はそれを、原作と全く違うものにしました。しかし、わたしが高校時代に読んだのは、まさにそういう物語・・・・・・だったのです。

『スクリーンが待っている』の中では、原作のある『駈込み訴え』を映像化した時の思いも語られています。曰く《この恐るべき作品の魔力を観た人にちゃんとパスして、「やっぱダザイってスゲー」と思わせるなら俺にまかせろ!》。いや、太宰もスゲーけど西川美和も凄いです、本当。

 さて、『スクリーンが待っている』の出だしの章は「恋」。原作のある映画を作らなかった西川が、ある小説にほれ込むところから始まります。読むわたしもまた著者と思いをひとつにし、ノンストップで――といいたいところですが、あまりに熱く語られる佐木隆三の『身分帳』が気になって仕方ありませんでした。

 結局、原作を読んでから『スクリーンが待っている』に戻り、そして映画『すばらしき世界』を観ました。

『駈込み訴え』の場合は、多くの人がキリストとユダのエピソードを知っている、そして、これを観るような人ならかなりの確率ですでに太宰の原作を読んでいる、そういう前提で作られている――と思いました。実際、原作を読んでから映像を観た方がはるかに魅きつけられるでしょう。

 しかし、『すばらしき世界』に関しては、そうともいい切れない。芯は残っても、『駈込み訴え』以上に、原作から独立した作品になっているからです。

 さて、太宰の名前が出たところでいえば、彼の『人間失格』には、有名な対義語――つまり反対語を探す場面が出てきます。《罪》の反対語は何か、という真剣な問いです。

 この映画では、《罪》の反対の位置に《普通》が置かれます。最初に映るのは刑務所の鉄格子です。その向こうにいるのが犯罪者なら、こちら側にいるのは普通の人々でしょう。それなら、格子を越えて戻って来た者は普通になれるのか。

 さらに西川は原作を離れ、犯罪者でなくとも、《普通》の立場から自分達と違って見られてしまう人も登場させます。これにより映画は、より普遍的な問題を語るものになりました。

 映画を観た後で、『スクリーンが待っている』を開けば、実にまれな読書体験が出来ます。完成した作品の背後に、どれだけの使われなかった材料があるかが分かります。我々がまず知り得ない創造の聖域をかいま見ることが出来るのです。

 わたしがことに印象深かったのは、女優八千草薫のことです。八千草さんはかつて、戦後の東京裁判の年から沖縄返還協定調印式の年まで続いた雑誌『きりん』の児童詩を朗読しています。そのCDに記されている言葉が《すべての人々の、美しい母の記憶》です。

 西川は、素晴らしい言葉で八千草さんを語っています。そして、今度の映画の主人公が《「この人が、母ならいいのに」》と思う女性として彼女を想定しました。闘病中の八千草さんでしたが、撮影に前向きだったといいます。そしてどうなったかは、本の中で語られます。

 母を求める主人公が子供たちとサッカーをする、胸をうつ場面があります。『スクリーンが待っている』を読んだ者は、映画では分からない配役を知ることが出来ます。画面に登場することのない母は、あの八千草薫なのだ――と。

 これはそういう、まれな本なのです。

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スクリーンが待っている

『スクリーンが待っている』
著/西川美和



北村 薫(きたむら・かおる)
1949年埼玉県生まれ。89年、覆面作家として『空飛ぶ馬』でデビュー。91年『夜の蟬』で第44回日本推理作家協会賞(短編および連作短編集部門)、2006年『ニッポン硬貨の謎』で第6回本格ミステリ大賞(評論・研究部門)、09年『鷺と雪』で第141回直木三十五賞、15年に第19回日本ミステリー文学大賞を受賞。「円紫さん」「覆面作家」シリーズなど著書多数。近著に『雪月花 謎解き私小説』『ユーカリの木の蔭で』など。

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