西川美和『スクリーンが待っている』
旅の記録
2015年の秋に佐木隆三さんが亡くなったのをきっかけに、1990年に刊行された『身分帳』に出合いました。新聞の追悼記事で、親友だった作家の古川薫さんが佐木さんの著書の中で『復讐するは我にあり』をしのぐ、「いちばん好きな作品」として紹介されていたのです。
「凶悪な罪人にたいしても温かいまなざしを向け、人間として理解しようと努力する書き手の姿勢が、犯罪小説を文学たらしめる」——この文言に、私は心を射抜かれました。当時絶版だった『身分帳』の古書を取り寄せた私は、ページをめくるごとに古川さんの言葉通りの感触を募らせ、読み終わる頃には「これを映画にして、再版させる!」と大志を抱いていました。人を一人殺して刑務所に服役した名もなき男が、社会に出てきて自分の人生をやり直すだけの日常を描いた地味な物語でしたが、有名事件を取り扱った佐木さんの他作品に比べてもずいぶん軽やかで、主人公の懲りない粗忽ぶりや人間関係の衝突は落語のようでもあり、こんな面白い本が忘れ去られていくのは世界にとって損失だと思ったのです。出版社が相手にしてくれるかはともかく、可能性はゼロではありません。私は映画監督という自らの生業に、この時だけは明るい夢を感じました。
『身分帳』のPRのようになってしまいましたが、それを実際に映画として仕上げて行く道程を書いたのがこの本です。私はこれまでオリジナルで5本の長編映画を作りましたが、他の人が書いた小説を脚色して長編に仕立てるのは初めてでした。プロの脚本家のように、長い原作の要所をつかみ、2時間の映像の設計図として再構成する訓練もしていないので、またもやズブの素人のスタート地点に立った気分でした。おぼつかない気持ちであちこち取材に出かけたり、今はなき小説のモデルを知る人や、佐木さんを知る人、服役経験がある人などから聞いた話、俳優たち、スタッフたちとの仕事についても、事細かく書いています。
映画を作るのは小さな星を一回りする旅のようだと思います。日照りにも嵐にも吹雪にも遭い、「だから映画はヤなんだよッ!」と毒づく日もあります。旅が終わると、もうへとへとにくたびれて、話題に出されるのもうんざりです。人は1本映画を監督すると3つ歳を取る、と聞いたこともあります。年に何本も撮る監督もいますが、一体何を飲んだらそんな精力がつくのでしょう。だけどしばらくぶらぶらしていると、また別の星へ旅をしてみたいと悠長なことを思うようになるからこれもふしぎです。次の星こそ、一番輝いているように思えてしまうのです。こんなことを言う柄ではないのですが、この本を読んで「映画の仕事も悪くないな」と思ってくれる若い人などがいたらそれほど嬉しいことはない気もします。こんな年寄りじみたことを言うようになってしまったのも、きっと映画のせいだと思います。
西川美和(にしかわ・みわ)
1974年広島県生まれ。2002年『蛇イチゴ』で脚本・監督デビュー。以降、『ゆれる』(06)、『ディア・ドクター』(09)、『夢売るふたり』(12)、『永い言い訳』(16)と続く五作の長編映画は、いずれも本人による原案からのオリジナル作品である。著書として、小説に『ゆれる』『きのうの神様』『その日東京駅五時二十五分発』『永い言い訳』、エッセイに『映画にまつわるXについて 』『 遠きにありて 』などがある。2021年、佐木隆三の小説『身分帳』を原案とした映画『すばらしき世界』を公開。