滞米こじらせ日記~愛しきダメな隣人たち~ 桐江キミコ 第1話 25年目の離婚 ⑤

滞米こじらせ日記~愛しきダメな隣人たち~

夫から「ハンナを愛してしまった」と告白され、
友人でもあるハンナからも、離婚を迫られたスジョンは……。

 それでも、スジョンが夫の元から去らなかったのは、スジョンにはほかに行くところがなかったからだ。息子を連れてソウルの小さな貧しい実家に戻っても、行く末は楽観できないし、それなら、アメリカにいたほうがいい。夫の心が家にはなくても、稼ぎはよくて生活には困らないし、立派な家もあるし、いっしょに食事に出かけたり旅行したりする仲のいい韓国人の友達もいるし、ネイルサロンで仕事をするようになって、生きがいみたいなものもある。

 毎年ひと月韓国に帰国するとき、デッキに屋外ジャクジーのある邸宅に住み、自分用の車を運転して仕事に行く生活を語ると、韓国の友人たちは羨望のまなざしで見る。本当は、その大きな家の中にはすきま風が吹いているのだけれど、それは言わない。まるで夢のような話をして故郷に錦を飾って、傷ついた自尊心を慰める。

 それからいろんなごちゃごちゃがあって、結局、夫は戻ってきて、夫婦二人名義の家を買って再スタートを切ったけれど、夫の心までは戻ってこなかった。ハンナにほかの男ができて別れるまで二年間、夫はハンナのところへ通い続けた。方々への出張にも連れて行ったらしい。

 ハンナの脅威は最終的にはなくなったけれど、夫が自分を愛してくれないのははっきりしたから、夫のことは心の中から絞り出してしまい、だから、夫の出張が長引いても、週末どこかへ行ってしまっても、犬の散歩に間に合うように帰って来なくても、それが何を意味するかわかっていて、目を向けない。知らないですめば傷つかないですむものを知りたくないばかりに夫の行動にはいっさい関知せず、ますます韓国人のコミュニティに浸り、だから、二人の関係はますます希薄になっていった。

 夫はハンナの後も浮気を続けているようだったけれど、自由に泳がせているおかげで、いつかは息子のいる家に帰ってくる。そして、ポールも、妻の無関心のおかげで、仕事以外の時間を自分のために好き勝手に過ごして、二人はそれぞれの世界に分かれたまま、同じ屋根の下で暮らし続けた。

 転機をもたらしたのは、一年前のポールの心臓切開手術だった。人工弁に取り換えなければ命に係(かか)わる状態になっていたポールは、それまで忙しさにかまけて流されるように生きてきたけれど、ここで初めて立ち止まって考えた。

 ひょっとしたら手術から目が覚めない可能性も考えたポールは、手術をするまでの間、それまで十二歳年上の夫にまかせきりだったスジョンに、小切手の切り方から、家賃の受け取り方、ローンの支払い方、各種保険や年金や貯金の説明、自分が死んだ場合のいろいろな手続きに至るまでを、向かい合って手取り足取り一つ一つじっくりと教え始めた。万一のことがあった場合、息子の母親であるスジョンに全財産を譲与し、その後の財産管理をゆだねるためだった。夫に頼りきりだったスジョンがそろそろと自立し始めたのはこのときだ。

 着々と準備を整えたポールだったけれど、その最中も、スジョンは、しっかり調べ上げ、考え抜いている夫に安心していたのか、そこまで気が回らなかったのか、夫の受ける手術の内容を調べようともわかろうともしなかった。どうせスジョンにはわからないから、夫は、心臓外科医の話も一人で聞きに行った。当日、手術室へ行く前に交わしたハグも、ちょっと週末旅行へ行ってくる、そんな感じの形式だけの軽いハグだった、とポールは言う。

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桐江キミコ(きりえ・きみこ)

米国ニューヨーク在住。上智大学卒業後、イエール大学・コロンビア大学の各大学院で学ぶ。著書に、小説集『お月さん』(小学館文庫)、エッセイ集『おしりのまつげ』(リトルモア)などがある。現在は、百年前に北米に移民した親戚と出会ったことから、日系人の本を執筆中。

◎編集者コラム◎ 『かぞくいろ ―RAILWAYS わたしたちの出発― 』大石直紀 脚本/吉田康弘
【著者インタビュー】鈴木敏夫『南の国のカンヤダ』