滞米こじらせ日記~愛しきダメな隣人たち~ 桐江キミコ 第1話 25年目の離婚 ⑤

滞米こじらせ日記~愛しきダメな隣人たち~

夫から「ハンナを愛してしまった」と告白され、
友人でもあるハンナからも、離婚を迫られたスジョンは……。

 手術から無事目が覚め、やがて仕事に復帰したとき、ポールは、修復不可能な、というより最初から折り合いのつかなかったスジョンとの婚姻にピリオドを打つことを決めた。今後は心をしっくり通い合わせることのできる人を見つけて、残された人生を満ち足りた思いで生きていきたいと思う。

 人生が思いもかけない方向へと進んでいった出会いから、反りの合わないまま、ポールとスジョンが夫婦として過ごして、気が付けば、もう二十五年余りがたってしまっていた。引っ掛かってできたほつれがどんどん広がっていくように、気がついたら、送るべき人生から遠くかけ離れてしまっている。

 心を通わせることができないまま、ポールは、スジョンと同じ屋根の下に住み続けたけれど、流れない空気や愛を感じられない寂しさや、そして口には出さないけれど、心の底に渦巻いているスジョンの賢(さか)しい小細工に対する恨みから、ほかにぬくもりを求めて、スジョンを悲しませてきた。そして、スジョンは、ポールの心の中を読み取れず、夫が去ろうとするたびに不安の渦に巻き込まれ、心は離れていったけれど、わけのわからない巨大な国でなすすべもなく、ポールにしがみついて同じ屋根の下に住み続けた。

 ポールとスジョンの一人息子が卒業した今年の春のまだ肌寒い日、スジョンは、祝福されながらポールと夫婦としてアメリカに渡ったように、韓国から招待した両親の前で、ポールと夫婦として並んで卒業式に出席して、そのあと、ポールは、スジョンに心の準備をさせるために別居してから離婚の調停に入った。
 

 先日、ポールが言った。

「息子が生まれたとき、スジョンは、英語で話しかけ、韓国語はけっして使おうとしなかった。おかげで一人息子は、韓国語はまったくしゃべれない。彼女の英語はブロークンなんだから、子供との会話は、きちんとした韓国語で成り立たせればいいのに、いったい何で息子に韓国語を使おうとしなかったんだろう?」

 そして、そんな質問をわたしに投げかけておきながら、ポールは、「本人には訊いてくれるなよ」と口止めした。なぜ赤の他人に訊けて、自分の妻には訊けないのだろう。そもそも、二十五年もいっしょに過ごしておきながら、なぜスジョンの心の中が見えないのだろう。

 スジョンが息子に韓国語を使わなかったのは、赤の他人のわたしにだってわかる。スジョンは、赤ん坊だった息子といっしょに英語を学び、息子から学び取ろうとしたのだ。結果的には、息子だけが学び、スジョンは取り残されていった。そんなスジョンをいじらしいとも悲しいとも思う。

 二人が住んだ郊外の大きな家のバックヤードには、ポールがシャベルで土を掘り起こして作った菜園がある。スジョンは、春になると、種をまき、苗を植えて、野菜を育て、家族のために菜園から野菜を採って家庭料理を作ってきた。

 郊外の大きなアメリカン・ホームに家庭が有機的に育たなかったのを悲しく思うし、ことばの問題でもあって、ことばの問題でもない、ことば以前の、でもことばによっても引き起こされた、埋められない溝を悲しいと思うし、ポールの心の中とスジョンの心の中を吹く風の色が違っていたのを悲しいと思うし、ポールがスジョンとの仲を何とかしようと切り出すたびに、「あなたは考えすぎよ」と言ってから、「わたしはシンプルな人間だから」と言ったスジョンの逃げ口上を悲しいと思うし、英語がうまくしゃべれず、アメリカに同化できないでいる母親を心配する息子が、ほかに女性を作り続ける父親に「なぜ母さんじゃだめなの?」と問い続けたのも悲しく思う。

 

(「25年目の離婚」おわり)
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桐江キミコ(きりえ・きみこ)

米国ニューヨーク在住。上智大学卒業後、イエール大学・コロンビア大学の各大学院で学ぶ。著書に、小説集『お月さん』(小学館文庫)、エッセイ集『おしりのまつげ』(リトルモア)などがある。現在は、百年前に北米に移民した親戚と出会ったことから、日系人の本を執筆中。

◎編集者コラム◎ 『かぞくいろ ―RAILWAYS わたしたちの出発― 』大石直紀 脚本/吉田康弘
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