高見 浩『陪審員C-2の情事』

高見 浩『陪審員C-2の情事』

『陪審員C-2の情事』の味わい


 人間だれしも──聖人君子でない限り──人生の先が見え始める年齢になれば、こんな思いがチラッと胸に浮かんだりしないだろうか。

 これ以上歳をとりすぎないうちに、あと一回くらい、ちょっとした浮気を楽しんでも、それほど罪なことではないのでは……。

 本書の主人公である熟年の女性写真家もまた、その誘惑を抑えきれずに、一線を越えてしまう。だが、彼女の場合、置かれている状況がいささか特殊だった。フロリダで進行中の、ある悲惨な殺人事件の裁判。その陪審員に彼女は連なっていて、一線を越えてしまう魅力的な相手もまた、同じ陪審員仲間なのである。裁判の被告が十七歳の少女であることから、審理の行方は社会的な注目を浴びており、裁判の中立性を保つために、陪審員たちは審理が終了するまで、あるモーテルに隔離されることになる。そこで禁断の情事がひそかに燃え上がる一方、日中に二人が参加している裁判もまた白熱していって……。

 こんなにエロティックで、しかもスリリングな小説を、あのジル・シメントが書いてのけるとは! この面白さはシメントの前作『眺めのいい部屋売ります』のそれとはまったく異質のものだが、こんどもまた読者は彼女の卓抜なストーリー・テリングに酔わされることになるだろう。

 シメントの手柄はなによりも、主人公の情事を裁判の進行と緊密に絡み合わせたプロットを織り上げたことにある。審理のリアルな描写を通して殺人事件の真相を客観的に追う一方で、シメントはもっぱら女性写真家の心理に寄り添って、秘められた情事の推移をもつぶさに追ってゆくのだ。翳のある十七歳の少女は果たして検察側の主張通り有罪なのか否かというサスペンスを、二人の陪審員の情事はどう着地するのだろうというサスペンスが、つかず離れずに追ってゆく。リーガル・サスペンスの興趣と、エロティックな情事の緊迫感。二つの要素が最後に一つに収斂するとき、平凡な日常の裏に隠されていた人生の呵責ない真実の貌がむき出しになってゆく──。

 ジル・シメントの、人間観察の鋭さが、人生のアイロニーを鮮やかに浮き彫りにした一編と言っていいと思う。ときに苦い後味を残すこともある甘い蜜。それでも吸いたいと思う方にも、やっぱり控えようかと思う方にも、お薦めの一編である。

 


高見 浩(たかみ・ひろし)
東京生まれ。出版社勤務を経て翻訳家に。主な訳書に『ヘミングウェイ全短編』『日はまた昇る』『誰がために鐘は鳴る』『老人と海』(E・ヘミングウェイ)、『羊たちの沈黙』『ハンニバル』『カリ・モーラ』(T・ハリス)、『カタツムリが食べる音』(E・T・ベイリー)、『眺めのいい部屋売ります』(J・シメント)、『北氷洋』(I・マグワイア)、『ワシントン・ブラック』(エシ・エデュジアン)など。著書に『ヘミングウェイの源流を求めて』がある。

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陪審員C-2の情事

『陪審員C-2の情事』
著/ジル・シメント
訳/高見 浩

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