翻訳者は語る 高見 浩さん

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第11回
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 アーネスト・ヘミングウェイの代表作のひとつ、『誰がために鐘は鳴る』の新訳が77年ぶりに刊行されました。高見浩さんは、新訳を手掛けた1年を振り返り、「手応えがあった」といいます。"ライフワーク"と自任するヘミングウェイとその作品群の魅力を伺いました。

〈ヘミングウェイへの思い〉

 ヘミングウェイ作品で最初にひかれて読んだのは、「殺し屋」という短編です。1927年の作品なのに、今でも通じるシャープさがあり、ハードボイルドの原型ともいえる作品でとても感心しました。90年に、文芸誌の特集で同作の翻訳を依頼されたことが、ヘミングウェイの新訳を手掛けるきっかけになりました。

 諸先輩方の翻訳はみな熱意に溢れていましたが、行動派の権化というイメージにとらわれすぎたのか、とりわけ短編の場合、ぼくの理解するヘミングウェイとは隔たっていたように思うのです。

 彼は、マッチョのイメージとは裏腹に、終生女性の心理、あるいはゲイやレズビアンの人たちに深い関心と理解を寄せていましたし、彼自身、心の底に両性具有願望を秘めていたことも今では知られています。

 たとえば第一次大戦の前線が舞台の「簡単な質問」という短編。これは冒頭で主人公のイタリア軍少佐が顔に丹念にオイルを塗るところから始まり、部下の若い兵士に謎めいた質問をくり返すというストーリーですが、冒頭の描写から少佐がゲイなのだということを読み取れないと、作品のテーマがわからないでしょう。 ヘミングウェイが男らしさや勇気を称揚していたのも事実ですが、それがすべてではなかったということです。素顔のヘミングウェイとはどんな人物だったのか、それを深く突き詰めることで作品の理解、ひいては翻訳の精度も高まるのではないかと一貫して考えてきました。

素顔のヘミングウェイに出会う

〈成熟期の大作に挑む〉

『誰がために鐘は鳴る』の新訳は、いずれ手掛けたいと思っていました。37歳でスペイン内戦の取材に行き、41歳で書き上げた本作は、ヘミングウェイの成熟期の作品といえます。ストーリー展開も人物描写も見事、複雑な内戦の実相を忠実に描き、ドキュメンタリーとしての価値もある作品です。描写の正確さを終生心がけた人であることを再認識しました。『日はまた昇る』を新訳する際、原書を手にスペインを訪れましたが、舞台となるパンプローナの風物の描写は、現代でもガイドになるくらい正確でした。彼の小説作法としての、one true sentence を描くことに全力を注いでいたのでしょう。

 彼は女性を描くのも本当にうまい。『誰がために鐘は鳴る』でも、主人公が赴いたゲリラ基地に、ピラールという中年女性がいるのですが、彼女が自身の様々な体験を語るシーンは、とてもリアルに迫るものがありました。

〈翻訳の楽しみ〉

 翻訳は、本を読む以上に作品にのめり込むので、多くの人生を生きられますね。物語の中で深く共感できる人物に出会うと、生身の人間との出会いと同じくらいの豊かさを得られるものです。

 自分の仕事が、時代とシンクロしていると感じる瞬間も、翻訳者ならではでしょうか。『ホット・ゾーン』は、エボラウィルスがまだ知られていないころに訳しましたが、その直後にアフリカで発生して大ニュースになり、驚きました。

〈翻訳者への出発点〉

 大学卒業後、出版社に入り男性雑誌の編集部に配属されました。そこでの仕事はいまでも財産となっていますが、5年ほど経って飽きてきていたんですね。当時未訳だったサリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』の「エズミに捧ぐ」という短編を気に入り、自分のものにしたくて翻訳し、シャガールの画集を切り取って表紙にして、悦に入っていたり(笑)。

 ジョン・ファウルズの『魔術師』に出会ったとき、これを訳せるなら今の仕事を辞めてもいいというくらい、心を打たれました。翻訳エージェントに問い合わせた結果、すでに版元と訳者は決まっていたのですが、一旦「辞めてもいい」と思ったことで気持ちにはずみがつき、会社を辞めて、翻訳の仕事を始めました。

 最近、19世紀の捕鯨漁を背景にした冒険小説『北氷洋 The North Water』(今秋刊行予定)の翻訳を手掛け、このジャンルの魅力を再認識しました。これからも新訳に限らず、作品の真髄をいかに忠実に正確に再現できるかに心を配っていきたいと思っています。

(構成/加古 淑)

高見 浩(たかみ・ひろし)

1941年東京生まれ。編集者を経て翻訳家に。著書にエッセイ集『ヘミングウェイの源流を求めて』がある。

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