著者の窓 第27回 ◈ キム・ホヨン『不便なコンビニ』
韓国でシリーズ累計百五十万部の大ヒット、ドラマ化も決定しているキム・ホヨンさんの小説『不便なコンビニ』(米津篤八訳、小学館)がついに日本上陸! ソウルの下町にあるコンビニ〈ALWAYS(オールウェイズ)〉で働き始めた、記憶喪失の元ホームレス〝独孤〟。朴訥ながら不思議な魅力をそなえた彼と、コンビニの同僚や客たちがくり広げる八篇の物語は、私たちに新しい一歩を踏み出す勇気を与えてくれます。生きることの〝不便さ〟と、そこから生まれる人との絆を描きたかった、と語る著者キム・ホヨンさんにインタビューしました。
町の灯台のようなコンビニに集う人々の物語
──韓国をはじめ、世界各国で愛読されているベストセラー『不便なコンビニ』がついに日本語に翻訳されることになりました。
すごく不思議な気持ちです。というのもわたしは今から十五年ほど前、出版社で日本の小説を韓国に紹介するという仕事に携わっていたんですよ。たとえば伊坂幸太郎さんの『オーデュボンの祈り』はわたしが初めて手がけた日本の小説です。読者としても日本の力強いストーリーテリングの大衆小説が大好きで、東野圭吾さん、吉田修一さん、奥田英朗さん、宮部みゆきさんなどの作品に「感動」を受けてきました。まさか自分の作品がこうして日本で出版されるとは思ってもみませんでした。小説を通して、両国の文化交流が進むのはとても嬉しいことだと思います。
──キムさんは二〇一三年のベストセラー『望遠洞ブラザーズ』(未邦訳)のあとはしばらくヒット作に恵まれず、ご苦労をされたとうかがっています。作家としてのモチベーションを支えたのは何だったのでしょうか。
デビュー作の『望遠洞ブラザーズ』で幸いにも注目していただきましたがその後数作、読者とのコミュニケーションをうまく取ることができませんでした。がっかりしましたし、挫折も味わいましたが、それを乗り越えられたのは、わたしが作家になったのが遅く、それまでの人生でさまざまな苦労を経験したからです。わたしが『望遠洞ブラザーズ』を書いたのは四十歳の頃でしたからね。それに作品がヒットするかどうかは神の領域。作家は一喜一憂することなく、書き続けることが大切だと思っています。書くことは大変ですが、わたしにとって楽しいことなんです。
──『不便なコンビニ』が国境を超えてヒットした理由のひとつは、コンビニという身近な舞台を選んだことだと思います。そもそもなぜコンビニを舞台にされたのですか。
二十年ほど前、韓国でコンビニが普及し始めた頃は、昔ながらの個人商店を追い出す殺伐とした空間だと認識されていました。しかし最近になるとそのコンビニが、昔ながらの商店の役割を担うようになってきました。たとえば夜道を歩いていて危険な目に遭ったら、コンビニに逃げ込むようにと言われます。いまやコンビニは庶民の憩いの場であり、町の灯台であり、交番のような存在でもある。そこに集う平凡な人々のストーリーを描いたことが、この小説が多くの読者に受け入れられた理由ではないかと思いますね。
──小説の舞台はソウルの下町・青坡洞にあるコンビニ〈ALWAYS〉。コンビニの舞台裏を描くうえで、リサーチはされましたか。
コンビニの経営をしている大学時代の親しい先輩がいるので、時間をかけてそのお店を取材しました。実際にアルバイトさせてもらおうと思ったんですが、「おまえは雇えない」と先輩が言うので(笑)、働いている人たちに詳しく話を聞かせてもらいました。コンビニではないですが、若い頃からカフェやビアホールなどで接客のアルバイトをたくさんしてきたので、物を売り、サービスを提供するという仕事への理解はありました。そうした経験も作品に反映できたと思います。
──ALWAYS で〝独孤〟と呼ばれる記憶を失った元ホームレスの男性が働き始めます。主人公・独孤のキャラクターを作るうえで、どんなことを意識されましたか。
どんな人物が夜間勤務のバイトをすれば、タイトルにある〝不便なコンビニ〟が生まれるだろうかと考えたんです。いろいろな案を検討しましたよ。外国人労働者や留学生、脱北者、果ては宇宙人という案まで(笑)。独孤をホームレスにしたのは、ホームレスがわたしたちの暮らす社会から一歩ずれたところにいて、さまざまな気づきを与えてくれる存在じゃないかと思ったからです。
──独孤が ALWAYS で働き始めたのは、店のオーナー・ヨムさんのポーチを拾ったことがきっかけです。現代では珍しいほど親切で、誰にでも面倒見がいいヨムさんにモデルはいるのでしょうか。
その質問は韓国でもよく受けますが、彼女に具体的なモデルはいないんです。あえて言うならこれまでの人生でわたしを支えてくれた、たくさんの大人たちがモデル。わたしだけでなく、誰にとってもそういう存在はいると思うんですよね。ヨムさんのキャラクターに現実味を持たせるため、元教師で、キリスト教徒であるという設定を与えましたが、彼女が親切なのはただそうしたいから。特別な理由もなく、見返りを求めずに人に優しくするのが本当の大人だと思います。ヨムさんはそんな〝いい大人〟の代表なんです。
悩める人の気持ちが少しでも明るくなるように
──そんな独孤とコンビニの同僚や客たちの間で、さまざまな物語がくり広げられていきます。転職がうまくいかない女性(「クレーマーの中のクレーマー」)、引きこもりの息子に悩まされる母(「おにぎりの効用」)、家庭の孤独をお酒で紛らわせる営業マン(「ワン・プラス・ワン」)……。その多くが困難に直面したり、葛藤を抱えたりしている人たちです。
そもそも小説とは行き詰まっている人、悩みを抱えている人について物語るものだと思っています。わたし自身、苦しんだ経験がありますし、皆さんもそんな時期があったと思う。そういう時に辛さを分け合って、慰めを与えてくれるのが小説なんです。
この連作を執筆するうえで意識したのは、より多くの読者にわたしの作品を好きになってもらうこと。そのために老若男女、さまざまな登場人物を描くことにしました。多くの人が出入りするコンビニは、そんな物語にぴったりの舞台だったんです。
──表題作「不便なコンビニ」には、スランプに陥った劇作家インギョンが登場します。彼女はキムさんご自身がモデルですか。
いいえ、彼女とわたしの共通点は三つくらいしかありません。ひとつは作家であること、そして作中に出てくる土地文化館という作家向けの施設で「アーティスト・イン・レジデンスプログラム」に参加した経験があること、そして執筆に苦心していることですね(笑)。作家を登場させたのは、この作品にメタフィクションの要素を取り入れたかったからだと思います。独孤さんがコンビニの同僚や客を一歩離れたところから眺め、そのコンビニをさらに外から眺める劇作家がいる、という構造にしたかったのです。
彼女を劇作家にした理由は、『望遠洞ブラザーズ』が舞台化されたのをきっかけに、演劇界の方々と交流を持つようになったためですね。かれらは厳しい状況の中で、演劇に情熱を注いでいます。その姿に感銘を受け、劇作家を登場させることにしたのです。
──そんな悩める人々が、独孤との交流によって変化していく。その際に重要な役目を果たすのが、おにぎりやトウモロコシのひげ茶など、コンビニで売られている身近な商品です。
人間にとって食べるのは大切なこと。小説を書くうえでも重要な要素です。もっともわたしの食べ物の好みは庶民的なので、ステーキやワインはまず出てきません(笑)。そういう作品も書いてみたいですが、よく出てくるのはおにぎりやカップ麺、焼酎チャミスルなどです。そうした庶民的な食べ物から慰めや元気をもらっている人を書いたことも、読者の共感を得られた理由かなと思いますね。
独孤と関わったからといって、悩んでいる人々に幸運が訪れるわけではありません。それでも誰かに応援してもらうことで、心に変化が生まれて、世の中を違った角度で見られるようになります。この小説を読んだ皆さんの気持ちが、ほんの少しでも明るくなれば本望です。
──作品後半になると、独孤の過去が少しずつ明かされていきます。このあたりはミステリー小説的な面白さもありますね。
どんなジャンルであろうと、優れたストーリーはすべてミステリーであると考えています。『不便なコンビニ』という作品の動力になっているのは、独狐さんは何者で、記憶を失う前はどんな人生を送っていたのか、という謎ですよね。
ネタバレになるのでその答えをお話しはできませんが、彼が過去にどんな経験をしたのかをまず設定してから、全体のストーリーを作り上げていきました。独狐さんが困っている人に手を差し伸べたり、適切なアドバイスをしたりできるのは、彼自身が辛い経験をしているからなんです。
生きることは不便なこと。だからこそ思いやりを
──最終章「ALWAYS」で独孤は自分の過去に向き合い、ある大きな選択をします。このラストの展開はあらかじめ決まっていたのでしょうか。
基本的にいつも全体のプロットを決めてから、ストーリーを繋げていくという書き方をしています。いわば小説の地図を描いてから、目的地に向かうという感じですね。その途中でよりよいルートが浮かぶこともありますし、美味しいお店に気づくこともある。地図というよりナビゲーションといった方がいいかもしれませんね。結末は決まっていても、ディテールは絶えず変化していくものなのです。
この小説が特別だったのは、執筆中にコロナ禍が始まったこと。そのためラストシーンを、コロナの時代を反映したものに変更しました。コロナ禍が皆さんの暮らしに影響を与えたように、この小説にも大きな変化を与えたんです。
──結末近く、ヨムさんが「生きること自体が不自由で、不便なことなのよ」との台詞を発します。独孤に投げかけられたこの言葉は、物語全体のテーマでもありますね。
最近韓国では不便に〝er〟(人を表す英語の接尾辞)をつけた、〝プロの不便ダー〟という言葉が流行っているんです。あらゆることに不便だ、不自由だと文句をつける人たちのことです。一昔前なら不自由だと感じなかったようなことでも、容認できない社会になっているんですね。
しかし生きることはもともと不便なものだと思うのです。だからこそお互いを思いやって、不便さを和らげるように努力する。便利さを追い求める現代人が忘れてしまいがちなことを、ヨムさんの台詞に反映させてみました。
──二〇二二年には待望の続編『不便なコンビニ2』が出版されました。シリーズの累計発行部数は、韓国だけで百五十万部。ベストセラー作家になり、キムさんの生活に変化はありましたか。
これといった変化はありません。変わらず執筆に苦しんでいる毎日です(笑)。そもそもこの小説がベストセラーになるとは、夢にも思っていませんでした。
『不便なコンビニ』は今年四月から舞台が始まり、ロングラン公演を続けています。招待を受けて観に行きましたが、作者が嫉妬するほど面白かったです。現在はドラマ化の企画が、『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』(を放送した韓国のケーブルテレビ局)のENAの出資で進行中です。こちらは来年前半の放送を目指すとのことでした。
韓国ではすでにこの作品がわたし個人の手を離れ、公共のものになっているような印象を受けます。とても嬉しいですし、また不思議な感じがしますね。
──それでは初めてキムさんの作品に触れる日本の読者に、メッセージをお願いします。
(日本語で)「はじめまして。キム・ホヨンです。小説を書いています。『不便なコンビニ』は初めて日本に紹介されるわたしの本です。韓国と日本の読者の架け橋になれば嬉しいと思っています。機会があれば日本で、読者の皆さんとお会いしたいです。よろしくお願いします」。
『不便なコンビニ』
キム・ホヨン/著 米津篤八/訳
小学館
Kim Ho Yeon(キム・ホヨン)
1974年生まれ。高麗大学国語国文学科卒業。2005年に第1回富川マンガストーリーコンテスト大賞受賞。2013年に長編小説『望遠洞ブラザーズ』で世界文学賞優秀賞を受賞。本作『不便なコンビニ』(2021)は韓国で100万部超えの大ベストセラーとなり、各国で翻訳出版され、舞台化、ドラマ化も進行している。続編『不便なコンビニ2』(2022)も合わせ、シリーズ累計150万部(2023年6月現在)。他の作品に『恋敵』(2015)、『ゴーストライターズ』(2017)、『ファウスター』(2019)、エッセイ『毎日書いて、書き直して、最後まで書きます』(2020)、『キム・ホヨンの作業室』(2023)などがある。
(インタビュー/朝宮運河 本文写真/松田麻樹)
〈「本の窓」2023年7月号掲載〉