米津篤八『不便なコンビニ』
都市の闇を照らす人間ドラマ
コンビニというのは、なぜあれほど魅力的なのだろうか。
炎天下の街路で、何か買うつもりもないのに涼を求めて立ち寄ったり、ひとり歩きの夜道で、看板の明かりを見てホッとしたり。
それは都市の闇を明るく照らす灯台。
人間の欲望を50坪の空間に凝縮した小宇宙。
それはいわば、原始の自然の飢えと恐怖から人類を救った、火のような存在だ。
海外旅行のときもそうだ。例えば、韓国を旅していて、コンビニを一度も利用したことのない人は少ないだろう。銀行に行かなくてもATMでウォンを引き出せるし、交通カードにチャージすることもできる。見慣れぬハングルに戸惑い、人混みに疲れた旅人も、飲み物やスナック菓子、カップ麺を買い、テラス席でしばし足を休めることもできる。
そこはなじみのある、でもどこかが違う商品を詰め込んだパラレルワールドだ。
本書はそんな小宇宙を取り巻く人間模様を描き、100万部を超えるベストセラーとなった。舞台は、ソウル駅から10分ほど歩いた下町の一角にある小さなコンビニ。ソウル駅をねぐらとするホームレスの「独孤」氏は、ひょんなきっかけで親切な元教師の老婦人「ヨムさん」と知り合い、彼女の経営するコンビニのアルバイトとして採用される。
男は記憶を失っており、「独孤」も仮の名だ。しかし、彼はアルバイトの同僚の就活生から仕事を引き継ぎ、客として店を訪れる劇作家や、うらぶれた興信所の私立探偵、母親のコンビニを売り払おうとたくらむオーナーのどら息子等々、コンビニに出入りする一癖も二癖もある人々との交流を通じて、次第に人間らしさと記憶を取り戻していく。
ついに完全に記憶を取り戻した日、彼は自分の命をつないでくれたコンビニと、オーナーのヨムさんのもとを去ることを決意する。「コンビニとは人々が四六時中出入りする場所であり、客と店員の別なく、やってきては立ち去る空間(中略)商品であれ金であれ、給油して出て行く人間たちのガソリンスタンドのような場所」(本書p258)なのだから。
そんな彼の正体は……。ほのぼのした人間ドラマに引き込まれてページを繰っていた読者は、思わぬ展開に息を呑むに違いない。私もしばし翻訳者であることを忘れて、著者の巧みなストーリーテリングのとりこになってしまった。
本書を一読してからコンビニのドアを開ければ、きっとそこで出会う店員や客の人生に思いを巡らせることになるだろう。
米津篤八(よねづ・とくや)
早稲田大学政治経済学部卒、朝日新聞社勤務を経て、朝鮮語翻訳家。訳書に『チャングム』キム・サンホン、『J. Y. Park エッセイ 何のために生きるのか?』J. Y. Park(以上、早川書房)、『夫・金大中とともに』李姫鎬(朝日新聞出版)、『世界の古典と賢者の知恵に学ぶ言葉の力』シン・ドヒョン(かんき出版)、『韓国近代美術史:甲午改革から1950年代まで』洪善杓(共訳、東京大学出版会)、『誘拐の日』チョン・ヘヨン(ハーパーコリンズ・ジャパン)、『おばあさんが帰ってきた』キム・ボム(光文社)など多数。
【好評発売中】
『不便なコンビニ』
著/キム・ホヨン 訳/米津篤八