夏川草介『始まりの木』

始まりの木

「諸君、旅の準備をしたまえ」


 我ながら、少し不思議な物語を書いた。変わり者の民俗学者とその教え子が日本各地を旅する物語である。格別奇をてらったわけではない。コロナ騒ぎでほとんど病院を離れられない腹いせに、本の中だけでも出歩いてやろうと画策したわけでもない。旅は旅でも本書は日本の名所旧跡を案内する旅ではない。地方病院で働く根暗な内科医の、思索の旅なのである。

 どうでもいいことだが、私は元来が明朗快活とは縁のない性格である。運動が不得手で、人込みは苦手で、暇さえあれば欝々と考え事ばかりしている。こういう人間が高齢者の多い地域の急性期病院で、日常的にたくさんの人が亡くなっていく様子を見守っていると、実に色々な事柄を考えるようになる。人の在り方はまことに多様であって、重篤な病の床にありながら、なお他者を思いやる篤実の人がいるかと思えば、己の不運に捕らわれ、いたずらに恨み言を重ね、自身も他者も傷つけながら死んでいく人もいる。他者を踏み台にしてでも自己を主張することを、当然の権利と考える人もいれば、「人を先に、自分をあとに」という古い哲学を寡黙に実践している人にも出会う。生と死の交錯する極限の場所であるからこそ、その相違が際立って見えてくるのである。

 何が正しくて、何がまちがっているのかは判断できない。価値観の多様化している今の世界においては、正しさを探すことそのものに意味がないのかもしれない。しかし、たとえ「正しい生き方」はなくても、「美しい生き方」はあるのではないか。そう考えなければ得心できないような、強く心を打たれる人間の姿に、しばしば出会ってきたのである。

 冒頭にも述べたが、本書は旅の物語である。二人は日本各地に出かけ、旅先で様々な風景に出会う。それはすなわち先の問題に対する私自身の思索の景色である。わかりにくい言葉ばかりで恐縮だが、要約は難しい。まずは本書を手に取っていただくしかない。二人の旅に付き合ってもらえれば、きっと私の言葉の意味が伝わるはずである。これ以上の説明は蛇足になる。本書の主人公の民俗学者なら、かかる著者の冗長な論述を一笑に付すに違いない。そうしてきっと、諸君に向かってこう告げるのである。

「理屈はいい。旅の準備をしたまえ」と。

 


夏川草介(なつかわ・そうすけ)
1978年大阪府生まれ。信州大学医学部卒。長野県にて地域医療に従事。2009年『神様のカルテ』で第10回小学館文庫小説賞を受賞しデビュー。同書で10年本屋大賞第2位、映画化もされた。他の著書に『神様のカルテ2』『神様のカルテ3』『神様のカルテ0』『新章 神様のカルテ』『本を守ろうとする猫の話』『勿忘草の咲く町で 安曇野診療記』がある。


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