乙武洋匡『ヒゲとナプキン』

乙武洋匡『ヒゲとナプキン』

「誰かの物語」から「私の物語」へ


 これまでも小説は手がけてきた。車椅子に乗った小学校教師の挑戦を描いた『だいじょうぶ3組』と、続編にあたる『ありがとう3組』、そして車椅子に乗った脳性麻痺の青年が歌舞伎町のホストとして奮闘する『車輪の上』。いずれも主人公が車椅子に乗っているという共通点から、自分自身を投影させやすい作品だった。だが、今回の『ヒゲとナプキン』の主人公はトランスジェンダー。私自身、長らくLGBTQの支援に携わり、理解に努めてきたが、それでも当事者ではない。主人公の心情をどれだけリアルに描くことができるのか、正直なところ不安がないわけではなかった。

 そもそも、今回の作品は、長年の友人でもある杉山文野からの〝持ち込み企画〟だった。日本最大のLGBTQイベント「東京レインボープライド」の共同代表を務めるなど、これまで啓発活動に力を尽くしてきた彼だが、さらなる理解の拡大にはエンタメの力が必要だと考え、私に小説を書いてくれないかと依頼してきたのだ。私の筆力でどれだけ人々の共感を得られる作品を描くことができるか、いまひとつ自信がない部分もあったが、友人の思いに突き動かされ、私は初めて「誰かの物語」を手がけることを決意した。

 これまでも杉山とは長年にわたって語らい合ってきたが、今回、小説を書くにあたって新たに何時間ものインタビューをさせてもらった。初めて聞く心情やエピソードもあれば、これまでも聞いていたはずなのに改めて聞くとまた違って感じられる話もあった。そして彼の話を聞くうち、私のなかで大きな心境の変化が訪れていることに気がついた。「うまく伝えられるだろうか」という不安が「必ずや伝えなければ」という使命感へと変わっていったのだ。

 そして、彼の話を聞くうちに、ひとつ気づいたことがあった。今回の作品において、私は当事者ではないと思っていた。しかし、それは半分は事実でありながら、半分は誤りであることに気づいたのだ。たしかに私はトランスジェンダーでもLGBTQでもない。しかし、たまたま多くの人と違う境遇に生まれたことで理不尽な生き方を強いられる社会は絶対に変えていかなければならないと考えている。そうした意味ではやはり私も当事者であり、「誰かの物語」ではなく「私の物語」なのだと考えを改めさせられた。

 主人公イツキの苦悩、そして周囲の人々の葛藤。まずは作品として味わっていただいた後、なぜこうした苦悩や葛藤が生まれてしまうのかについて思いを馳せていただければ幸いだ。

 



乙武洋匡(おとたけ・ひろただ)
1976年東京都生まれ。1998年、早稲田大学在学中に上梓した『五体不満足』は600万部のベストセラーに。卒業後、スポーツライター、小学校教諭などを務める。おもな著作に、『だいじょうぶ3組』『自分を愛する力』『車輪の上』『ただいま、日本』など。note にて定期購読マガジン「乙武洋匡の七転び八起き」を配信。

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『ヒゲとナプキン』
著/乙武洋匡 原案/杉山文野

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