◇自著を語る◇ 柳 広司『太平洋食堂』
何年か前、ある編集者からこんなことを言われた。
──柳さんは政治的なことを書かれるので、うちでは書いて頂けません。
二十一世紀の、日本国内での話である。
今回上梓した『太平洋食堂』は、明治政府による思想弾圧事件──いわゆる〝大逆事件〟──を描いた作品だ。前出の編集者によれば、思いきり政治的な作品ということになるのだろう。
それがいったい何だというのか?
小説の基準は畢竟、面白いか、面白くないか、だ。
テーマや文体、視点の問題など、小説を面白くするための技術であって、面白ければ何でもあり(なし)のはずだ。
つまらない、という批判なら甘んじて受ける。あとで、どこがどう面白くないのかネチネチ聞くと思うが、批判は受ける。たぶん、この辺りが政治的云々以前に仕事を断られる原因なのだろうが、それならそうとはっきり言えば良い。忖度は政治家の特権であって、小説家のものではない。
かつて小説は自由なメディアだと言われていた。映画やテレビ、演劇など大勢の人がかかわる媒体とは違って、小説家が一人でこつこつ書いていくだけの作業なので、生産コストが極端に低い。駄目でも、食えなくなるのは小説家一人。
昨今は、世間の空気の問題なのか、ネット批評のせいなのか、はたまたコンプライアンスにかかわる事案なのかよくわからないが、そのテーマはちょっと、と言われることがある。先日は打ち合わせの席で「(そんなことを書いたら)勲章を貰えませんよ」と言われて、飲みかけのコーヒーを思わず噴いた。
小説には型がある。小説で表現できることは決まっている。小説にできるのは小説世界のことだけ。辛い現実を忘れさせてくれるのが最良の小説。
最近はどうやらそんなものらしい。
それで小説が面白くなったなら良いが、文芸マーケットは縮小の一方だという。
読者に「面白くない」と言われているのではないか?
小説の基準は面白いか、面白くないかだ。妙な忖度はやめて、メディアとしての自由をもう一度追い求めるのも一つの手だろう。駄目でも、小説家が一人、食えなくなるだけだ。
本作には業界でいわゆる「売れるための要素」といわれる派手な活劇シーンも、密室の謎も、身を焦がす激しい恋も出てこない。子供や動物や難病は出てくるが、残念ながら泣ける小説ではない。その代わり主義者やアカが登場し、実在の政治家や学者と対決する。現代に通じる政治風刺をたっぷり含んだ〝危ない〟小説だ。
どうしたら面白く読んでもらえるか、小説家として持てる限りの力をすべて本作に注ぎ込んだ。
面白い小説になったと思う。
本作をお読み頂ければ「へえ、小説はこんな面白さも表現できるのか」と、小説メディアの可能性を改めて感じて頂けるのではないかと自負している。
主人公は〝皮肉とユーモアと反骨の人〟大石誠之助。社会的に虐げられた者たちの味方であり、