【連載お仕事小説・第7回】ブラックどんまい! わたし仕事に本気です

燃えるお仕事スピリットが詰まった好評新連載、第7回。主人公の七菜(なな)は、いつも仕事に全力投球! 絶対的存在の原作者・上条朱音がいきなり現れた撮影現場。スタッフ皆が細心の注意を払い緊張に包まれる中、七菜が朱音のケアをすることに。朱音の機嫌を損ねないよう、特製の生姜湯でもてなすなど最善を尽くそうとする七菜を、ハプニングが襲う!

 

【前回までのあらすじ】

撮影現場に、予定外に姿を現したのは、なんとドラマの原作者・上条朱音だった! 想定していなかった事態に、緊張と焦りに包まれる現場。朱音の機嫌を損ねることがないよう、細心の注意を払いながら進む撮影。そんな空気の中、後輩のアシスタントプロデューサー・大基が無神経な発言し、七菜は思わずカッとなるが……。
 

【今回のあらすじ】

怪訝な顔で主演女優の小岩井あすかに対する不満を並べ立てる、ドラマ原作者・上条朱音の姿に、その興味をあすかから逸らせようと必死になる七菜。特製の生姜湯でもてなすと、幸い朱音は上機嫌になるが、なんとその時、七菜の目に止まったのは……!?
 

【登場人物】

時崎七菜(ときざき なな):テレビドラマ制作会社「アッシュ」のAP、31歳。広島県出身。24歳で上京してから無我夢中で走り続け、多忙な日々を送っている。

板倉頼子(いたくら よりこ):七菜の勤める制作会社の上司。チーフプロデューサー。包容力があり、腕によりをかけたロケ飯が業界でも名物。

小岩井あすか(こいわい あすか):撮影が進行中のテレビドラマの主演女優。

橘一輝(たちばな いっき):撮影が進行中のテレビドラマの主演俳優。

佐野李生(さの りお):七菜の後輩のAP。26歳で勤務3年目。

平大基(たいら だいき):七菜の後輩のAP。今年4月入社予定の22歳の新人。

野川愛理(のがわ あいり):メイクチーフ。撮影スタッフで一番七菜と親しい。

佐々木拓(ささき たく):七菜の恋人。大手食品メーカーの総務部に勤めている。

上条朱音(かみじょう あかね):ドラマ『半熟たまご』の原作者。数々のベストセラーを持つ小説界の重鎮。教育評論家としても名高い。

 

【本編はこちらから!】

 
 椅子に体重を預けた朱音が、両腕と足を組み、あすかや一輝の一挙手一投足を見守っている。猛禽類を連想させる、かっと見開かれた両目。薄暗い木陰で、真っ赤なルージュが空に浮いたように光る。横に控えた耕平があれこれと話しかけているが、朱音はなにも言わない。首ひとつ振ることもない。七菜は視線を外し、ふっと息をついた。
 現場全体を圧するような強いオーラが朱音から発されている。ふだんは張りつめてはいても、シーンの合い間にはおだやかな空気が流れる矢口組が、いまは氷のアイロンでプレスされたように緊張感で固まりついていた。七菜自身、朱音の迫力に気圧(けお)され、背中を中心にからだじゅうが強張っている。
 と、七菜のレシーバーから耕平の声が聞こえてきた。
「時崎、時崎」
「はい、なんでしょうか」
「ちょっと、ちょっとこっち来いや」
 振り向く。朱音から見えないところで耕平がちいさく手招きしていた。不審に思いつつも日傘を置いて、七菜は小走りで耕平のそばへと走る。
「ここ、任せるから。あとよろしくな」
 七菜の耳もとで耕平が囁く。
「は? な、なにを」
「おれさ、別の現場に呼ばれてて。そっち行かなくちゃなんねぇんだ」
 嘘だ。七菜は直感する。
 いや半分はほんとうかもしれない。だが残り半分は一刻も早くここから逃げ出したい、その一念だろう。
「待ってください、あたしは小岩井さんの」
「そんなの誰かに任せろ」
 耕平は、七菜に返事する間を与えず、さっと屈み込んで朱音に告げる。
「先生、たいへん申し訳ないのですが、わたくし別の現場に戻らなければならなくなりまして。先生のお世話はここにいるアシスタントプロデューサーの時崎が引き継ぎますので」
「い、岩見さん」
 七菜は耕平のコートを掴んだ。七菜を無視し、耕平がつづける。
「なにかございましたら、どうぞなんなりと時崎にお申し付けくださいませ」
 ちらり。朱音が七菜を見上げる。その目にはなんの感情も浮かんでいない。まるで道ばたの石ころでも見るような目つきだった。
「あ、そう」
「せっかく先生にお会いできたのに残念でたまりません。どうぞごゆっくりとご見学なさってくださいね」
 朱音が面倒くさそうに首肯する。すでに視線は七菜から離れ、テストを繰り返す俳優たちに戻っている。
「では。ではではでは。失礼いたします」
 水飲み鳥のようにお辞儀を繰り返すと、さっと耕平がコートを翻した。ふらんふらんした足取りで去ってゆく耕平の背中を、なかばぼう然と七菜は見つめる。
 ずるい。ふつふつと怒りがわいてくる。耕平はいつもこうだ。ひとたび面倒ごとが起こると、頼子や七菜に任せ、さっさと逃げてしまう。これってパワハラじゃないの。
 とはいえ上司の業務命令だ。逆らうことはできない。
「ふつつかものですが、上条先生、どうぞよろしくお願いいたします」
 (ひる)みそうなこころを奮い立たせ、七菜は朱音に頭を下げる。朱音はなんの反応もしない。仕方なく七菜は朱音の斜め後方に立ち、目を正面に向ける。ちょうどテストが終わり、照明や音声スタッフが位置取りを始めたところだった。あすかがモデルのような優雅な足運びでじぶんの椅子に戻ってゆく。
 誰か代わりの人間をあすかにつけなくっちゃ。
 七菜は血走った目で周囲を見回した。折よく、ブースから歩いてくる李生が目に入る。七菜はマイクに小声で告げる。
「佐野くん、悪いけど小岩井さんについてくれる」
「え、でもおれ」
「お願い。動けないの、いま」
「動けないって、時崎さんいったい」
 立ち止まった李生が、きょろきょろあたりを窺う。しばらくして七菜を見つけた李生の顔が強張る。七菜は無言で頷く。勘のいい李生はそれだけですべて悟ったようだ。やはり無言で頷き返すと、まっすぐあすかのもとに向かった。
 よかった、すぐに代わりが見つかって。
 すこしだけほっとした七菜に、とつぜん朱音が声をかけた。
「なんなのあの子。こども塾の講師にしちゃ、ちょっとちゃらちゃらし過ぎよ」
 あわてて朱音の視線を追う。視線の先に、李生と親しげに会話するあすかがいた。あすかを睨みつけたまま朱音がつづける。
「あんなに髪、長くして、爪、真っ赤に染めて。あれじゃまるで水商売の女じゃないの。それになに、あの子役。あんな小生意気な子、じっさいのこども塾にはいないわ、ひとりも」
 朱音が吐き捨てるように言う。
 原作小説『半熟たまご』は、じっさいに朱音が運営しているこども塾がモデルだ。NPO法人で、たしか朱音のひとり息子が理事長を務めていると聞いている。朱音自身もひんぱんに塾を見舞い、なんやかや子どもたちの世話を焼くと、よくテレビのワイドショーで語っていた。
 とはいえ小説とドラマは違う。視聴率が命のドラマでは、お茶の間の関心を引くようにキャラクターを強めに造形しなければならない。ましてやあすかはアイドル女優だ。髪型やメイクなど、事務所から細かい指示を出されている。
 朱音は延々とあすかと子役に対する不満を述べ立てている。じぶんのことばにじぶんで酔っていくようにも見える。
 なんとかしなくては。七菜は焦る。
 子役はともかく「あすかを降板させる」などと言い出したらえらいことになってしまう。とりあえず朱音の興味をあすかから逸らさなくてはならない。なにかないか、他の話題はなにか。七菜は必死に頭を回転させる。
 と、強い北風が吹いた。大木の枝が音を立てて揺れる。
「へくしょいっ!」
 大地を揺るがすような大音量で朱音がくしゃみをした。
 チャンス到来。すかさず七菜は朱音に話しかける。
「先生、ここだとお寒くありませんか。木の影で陽が遮られておりますし。もしよかったらひなたに移りませんか」
「そうねえ……」
 ティッシュで鼻を押さえながら朱音が考え込む。
「せっかくお見舞いに来てくださったのに、お風邪など召されてはたいへんです。なにより先生は大事なおからだです。先生が万一、ご体調を崩されでもしたら、日本中のファンが心配してしまいます」
 重ねて言うと、ようやく首を縦に振った。
「あなたの言うことももっともだわ。椅子を動かして頂戴」
「かしこまりました」
 恭しく頭を下げると、七菜はチェアを木陰から出し、日あたりのよい芝地に移した。朱音が腰かけるのを待って、さらに声をかける。
「先生、コーヒーでもお持ちしましょうか」
「いらないわ。コーヒーは苦手なの」
 そんなことも知らないのかといわんばかりに朱音が顔を(しか)める。
「失礼しました。ではハーブティなどいかがでしょう。カモミールとペパーミント、ラベンダーもございます」
「そうなの。じゃあカモミールをいただこうかしら」
 朱音の声がじゃっかん和んだ。
「すぐに取ってまいりますね」
 言うや七菜はブース横に向かって駆けだした。簡易テーブルに並べられた箱のなかからカモミールのティーバッグを取り出し、紙コップに入れ、ポットの熱い湯をそそぐ。ふと目を転じると、頼子の生姜湯が入った保温ポットが視界に入った。
 そうだ、これも。七菜は紙コップに生姜湯を満たした。
 ふたつの紙コップを持ち、なるたけ早足で朱音の横へ戻る。
「お待たせいたしました。こちらカモミールティーです。あともし先生がお好きでしたら」
 カモミールのカップを差し出しつつ、もうひとつのカップを見せる。
「スタッフ特製の生姜湯です。おからだが温まるかと思いまして」
「あら、ありがとう。せっかくだから両方いただくわ」
 朱音の頬が緩む。ほんの少しだけ迷ったあと、朱音はまず生姜湯のカップを手に取り、ひと口、含んだ。味わうように目を閉じる。
「生の生姜を使ってるのね。香りが違うわ。甘みが尖っていないってことは、お砂糖じゃなくて蜂蜜ね、これは」
「さすが先生、ご名答です」
「あら? なにかしらこの種……」
 朱音がクミンに気づいたらしい。
 苦手でなければいいけど。七菜は緊張する。
 だが幸いにも杞憂だったようだ。まぶたを上げた朱音が感心したように首を振る。
「クミンシードね。これ胃の働きを助けてくれるのよね。ありがたいわ。締め切りつづきで胃が弱ってたから。でもまさか生姜湯に入れるとはね。よく合うわ、生姜とクミン」
 満足げに頷く朱音を見て、七菜はこころの底からほっとする。
「ありがとうございます。カモミールティーはこちらへ置きますね」
 お辞儀をしてから、ディレクターズチェアの右のカップ入れに置いた。
 生姜湯をさらにひと口飲んだ朱音が、チェアの左に設けられたもうひとつのカップ入れに紙コップを置こうとからだを(ねじ)る。その拍子に、死角になっていた朱音の左肩が七菜の視界に入る。とたん、
「うっ」
 七菜は思わず息を詰めた。
 朱音の真っ赤なコート、その左肩に、深緑混じりの白っぽい汚れがついていた。
 こ、これは。七菜は汚れを凝視する。どう見ても鳥の。
 知らんぷりを決め込もうか。一瞬七菜の脳裏にその思いがよぎる。
 いやそんなことはできない。どうせすぐに誰かが気づく。
『トラブルにはなるたけ早く対処すべし』。七菜がアッシュに入って、最初に叩き込まれた教訓だった。

 

【次回予告】

『トラブルにはなるたけ早く対処すべし』。入社して最初に叩き込まれたその教訓にのっとって、トラブルを乗り越えようとする七菜。朱音を怒らせないよう、最大限の力を振り絞るが、切り抜けることはできるのか……?

〈次回は3月6日頃に更新予定です。〉

プロフィール

中澤日菜子(なかざわ・ひなこ)

1969年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒。2013年『お父さんと伊藤さん』で小説家デビュー。同作品は2016年に映画化。他の著書に、ドラマ化された『PTAグランパ!』、『星球』『お願いおむらいす』などがある。

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初出:P+D MAGAZINE(2020/02/28)

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