滞米こじらせ日記~愛しきダメな隣人たち~ 桐江キミコ 第1話 25年目の離婚 ③

滞米こじらせ日記~愛しきダメな隣人たち~

流されやすいポールは、ついにスジョンと結婚してしまう。
嚙み合わない歯車をことばのせいにしているうちはよかったが……。

 そして、年上で、母国にいて、両親も兄弟も親戚も友人もいて、高収入の仕事があるポールは、渡米の手伝いをした責任も感じて、行き場のないスジョンを見捨てられず、離婚を思い留(とど)まった。

 何年たってもアメリカになじめないスジョンは、生活のほぼ全面にわたってポールに頼りっぱなしだった。息子の宿題を見るのも、学校の行事や連絡も、公共料金や保険料の支払いも、二軒ある貸家の住人との連絡や家賃の取り立てや修理の手配も、ポールがする。しかも、ポールには責任のある仕事があり、国内外の出張も月に二、三度はある。新製品が発売されれば、その後しばらくは説明会のための出張が続いて、目が回るほど忙しい。ポールは、配偶者というよりも、大きな娘をあずかった保護者だった。

 夫婦関係をよりよくする努力を放棄して、いっしょに人生を築いていく相手ではなく、生活費を稼ぐプロバイダーとしてしか夫を見ないスジョンに対する不満をくすぶらせながら、心の隅で、ポールは、アメリカに来たいがために、アメリカの永住権が欲しいがために、アメリカに住み続けたいがために、スジョンは自分を利用していたのではないかと疑っている。スジョンは、ひと目見ればどろどろに疲れきっているのがわかりそうな夫が帰って来ても、韓国のテレビドラマに夢中で、ろくに注意も払わない。頻繁に出張に出かける夫に電話をかけることもない。アメリカ人の妻なら、帰宅した夫に「きょうはどうだった?」と声をかけてねぎらうだろうし、出張先には毎日のように電話をかけて夫の様子を尋ねるだろう。そして、もっと夫との会話を持ち、もっと愛情表現をし、もっと夫といっしょにいる時間を増やそうとし、もっと夫の仕事をサポートし、もっと夫との関係を密にしようと努力するだろう。なのに、スジョンは、夫とコミュニケーションを取るための英語を勉強しようともしない。

 ことばの壁はいつまでたっても立ちふさがったままで、結局、四半世紀たっても、スジョンの英語は、ポールによれば当初から三割がたしかマシにならず、今も、ポールは、アメリカに来たばかりの二十のスジョンに話したように、五十路に迫ったスジョンに、少ない単語をつなぎ合わせるようにして話しかけている。何気ないことを語り合ったり、ふと思いついたことをしゃべってみたりする普通の会話は望めないし、気の利いたジョークを言い合ったり、さりげなく思いやりのあることばをかけ合ったりすることなど、到底、無理だった。スジョンにとって英語をしゃべるということは、店に行って欲しいものを注文したり、迷ったときに道を訊くこと止まりだった。「ずっと子供英語をしゃべり続けてきたおかげで、自分の英語までだんだんおかしくなってきた」とポールは言う。

「今から思うと、やっぱり最初の時点でそれぞれの道を歩いていくべきだったんだ。スジョンは、韓国人のコミュニティに吸い込まれて、それなりになんとかアメリカで生きていっただろうし」と、ポールは振り返って言うけれど、二十五年このかた、ポールは、何度も何度も離婚を考え、何度も何度も離婚をしかけて、何度も何度もスジョンの猛反対に遭い、何度も何度も思い留まってきた。

 郊外の立派な邸宅を買って移り住んで再スタートを切っても、相性の合わない二人はうまく嚙み合わず、結局、ポールは愛情がなくても成り立つアジアチックな形態の結婚を続け、距離の縮まらないスジョンと同じ屋根の下、形だけの夫婦として過ごす羽目になった。それでも、これまでなんとか持ちこたえられたのは、頻繁に出張のある忙しい仕事が救ってくれたおかげでもあるし、一人息子がかすがいになってくれたおかげでもあるし、スジョンの弟がアメリカ留学してポールの家に七年間下宿することになったおかげでもある。間に誰かがいないことには空気が流れていかないのだ。義理の弟はよそよそしくて取っつきにくいし、実の息子も愛情表現に乏しくて、どこか距離感があるけれど、それもポールはスジョンの血筋のせいだと思う。

 スジョンとは激しい口論をするわけでもない。摩擦が起きるほどオーバーラップする部分がなかったからだ。ほとんど会話のない家庭をスジョンと二十五年も続けることができたのは、アイロニックだけれど、埋められないギャップのせいでもあった。

(つづく)
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桐江キミコ(きりえ・きみこ)

米国ニューヨーク在住。上智大学卒業後、イエール大学・コロンビア大学の各大学院で学ぶ。著書に、小説集『お月さん』(小学館文庫)、エッセイ集『おしりのまつげ』(リトルモア)などがある。現在は、百年前に北米に移民した親戚と出会ったことから、日系人の本を執筆中。

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