★編集Mの文庫スペシャリテ★『完全無罪』大門剛明さん

著者近影(写真)
★編集Mの文庫スペシャリテ★『完全無罪』大門剛明さん

やっと人として、生まれ直せたのかもしれません

 死刑制度と冤罪をテーマにした『雪冤』で、一躍リーガルミステリーの注目株となった大門剛明さん。その後も骨太なテーマに取り組み、ドラマ化される『不協和音 京都、刑事と検事の事件手帳』(田中圭・中村倫也主演)など、映像化も続いています。2019年に刊行した『完全無罪』は、女性弁護士・松岡千紗を軸に描いた、冤罪ミステリーの金字塔的な作品。社会派作家としての円熟期を示す秀作で、ロングセラーを記録しています。続編『死刑評決』と併せ、このシリーズにかける思いをお聞きしました。

捜査機関側の弁護士

きらら……『完全無罪』、非常に読みごたえのある物語でした。大門さんがデビュー作から取り組まれている、冤罪問題というテーマの集大成のようにも思いました。

大門……真新しいテーマではなかったのですが、いつもと同じように面白い作品を作りたいという思いから描いていって、結果的に集大成に近い小説になったかな、という印象はあります。
まず冤罪を受けた人が、その濡れ衣を晴らすだけの物語にはしないように気をつけました。冤罪を受けた本人とは、別の背景を持った人物を近くに配置して、両者が交わっていく構造を意識しました。構想を進めていくなか、容疑者の平山聡史と、主人公の松岡千紗の人物像が、まとまっていきました。

きらら……千紗は若手の女性弁護士です。平山は幼女誘拐殺人事件〝綾川事件〟の容疑で収監されており、少女時代の千紗を誘拐・監禁した疑いも持たれています。千紗は再審請求を受け、平山の弁護を担当することになります。

大門……千紗は弁護人なので、本来なら依頼人のことを第一に考えないといけない立場です。ですが千紗の動機は決して弁護士としての正義感だけではありません。平山を無罪にすることよりも、真実を知り、ずっと苦しんでいる幻影から逃れたいという気持ちが大きかったはず。彼女自身を貫いている、得体の知れないエネルギーというか、生き様そのものが、あえて平山と関わることを決めさせたのかもしれないです。千紗は実質的には弁護士という立場を利用した捜査機関側の人間として設定しました。
一方で平山も、得体の知れないエネルギーを抱えています。最初、千紗は自分の思いを隠して弁護しています。しかし思いを秘めていることを平山に見抜かれているため、平山は決して心を開きません。千紗がその秘めた思いをあらわにしたとき、平山もようやく少し心を開きます。平山と千紗は対話を続けるうちに、お互いのエネルギーが重なり、言葉には表現できない信頼をつないでいきます。

きらら……忌まわしい過去に苦しみ続けている千紗と、何かを隠しているような平山とのやりとりは、緊迫感に満ちていました。

大門……平山の目的は、最初から決まっていました。千紗は当初、そのために利用する相手でしかなかったのでしょうけれど、彼女の深い悲しみや、言葉の裏にある真意に、次第に共鳴していきます。味方同士ではないかもしれませんが、裁判を通して千紗と平山は、共闘関係になっていったのだと思います。

紡がれなかったもうひとつの『完全無罪』

大門……平山は僕のなかでは、もうひとりの主人公として、とらえています。彼は法律的には、無罪かもしれない。しかし無罪が証明された後に、本当に闘わねばならないものがありました。彼が冤罪を訴える根底には、裁判で明かされたものよりもっと深い、切実な理由が秘められています。この平山をどう描いていくかがこの物語で一番大事なことでした。

きらら……平山の再審請求が進むなか、元警察官の有森義男が、重要な存在として絡んできます。有森はかつて平山に冤罪を着せた張本人ですが、彼もまた過去に苛まれています。

大門……有森は元刑事なので、本来なら真実を明らかにする側だと思うのですが、むしろこの物語では犯人側というか、真実を隠蔽する側の人間として描いています。もちろん彼自身の正義もあるのですが、映写機の存在というべきか、彼を通じて平山という人物を浮かび上がらせたいという思いから物語における片方の視点を与えました。

大門剛明さん

きらら……再審では関係者の意外な裏切りもあって、平山の冤罪は見事に晴れました。しかし、物語はそこから急転回していきます。

大門……平山は「ありがとう、こんな人殺しを無罪にしてくれて」という言葉を呟きます。ここからですね。

きらら……事件の驚きの真相が、ラストで明かされます。そこで平山のセリフの意味が、いくつもの伏線になっていたと気づかされます。

大門……ラストは最初から決まっていましたが、そこに至るまでの物語を盛り上げていくことも重要だと思います。一方で人物の行動や言動に矛盾が生じてはいけない。そういう意味でこのセリフも物語を編み上げていく上で絶対外せない存在として最初から決まっていました。

きらら……千紗が挫けずに、平山の冤罪に向き合った原動力は、何だったのでしょうか?

大門……最初は自分の生を取り戻したいという欲求だけだったのだと思います。それまで心のなかは、死んでいた。けれど平山や有森たちの闇に触れ、客観的な力で己の闇を見つめ、 過去に決着をつけました。やっと人として、生まれ直せたのかもしれません。自分の過去とはまた違った冤罪事件という、人間の本質を問われる問題に逃げずに取り組んだことで、成長できたのでしょう。僕自身、冤罪というテーマは、1作で書ききれるものではなかったなと感じます。書いている間は、『完全無罪』というタイトルでもうひとつ、長編となるべき物語が頭に浮かんでいました。それはこの作品とはまた違う話です。裁判で無罪を勝ちとったものの真犯人も現れることなく、社会的には犯罪者だと思われたままの人間が自分の尊厳を取り戻そうとしてドン・キホーテ的に闘う話です。真剣でありながら滑稽。
千紗も有森もいない平山の物語といえるかもしれません。ミステリーではありませんが、この『完全無罪』が僕の頭の中で並走していました。

人が人を裁くのに明確な答えは出ないが……

きらら……『完全無罪』の半年後となる作品が、『死刑評決』です。千紗は裁判員裁判で、死刑を宣告された青年の再審請求を手がけます。

大門……『死刑評決』では、裁判員裁判の内実を描いています。以前、模擬裁判を取材しました。有罪か無罪かは割としっかり論じられますが、量刑に関しては、さらっと流されるように決まる印象があったのです。人ひとりの人生を左右する刑を決めるのに、そんな感じでいいのだろうか? という疑問が『死刑評決』の始まりになっています。特に死刑か無期かという量刑は天と地ほどの差があるのに、他の評決と同じように多数決で決せられます。その最後の1票を投じるまでのプロセス、それ以上に投じた人のその後の人生を描くことが僕自身、最も興味をひかれたことでした。今作は、死刑判決を下した地裁裁判長の陶子と、千紗との対決が軸になっています。評決は5対4でした。つまり死刑に票を投じた陶子や他の裁判員の1票で死刑が決まったともいえる状況です。陶子がどういう思いで死刑に票を投じ、それが彼女や他の人々の人生を変えていくところを楽しんでいただければと思います。
おそらく人が人を裁くことに明確な答えはないのでしょう。ただどうしようもないとあきらめるのではなく、より正しいと思われる裁きに近づけることは可能かもしれません。アメリカでは「スーパー・デュー・プロセス」といって死刑には陪審員の全員一致が必要であるなど、制度的に日本とは違っていることも知りました。それが正しいのかどうかは別として、自分には知らないことが多くあり、学ぶこと、考えることの大切さ、面白さを今さらのように感じています。まったく非現実なことではどうしようもありませんが、今置かれた状況でできること、制度的に変えていくことでできることについて真剣に考えていくと、思いがたぎり、新しい人物が生まれ、作品を描きたくなっていきます。そういうエネルギーを大事にこれからも面白い作品を生み出していけたらと思います。

『完全無罪』
講談社文庫
 
大門剛明(だいもん・たけあき)

1974年三重県生まれ。龍谷大学文学部卒業。2009年、第29回横溝正史ミステリ大賞とテレビ東京賞をダブル受賞した『雪冤』でデビュー。主な著書に『反撃のスイッチ』『氷の秒針』『優しき共犯者』『婚活探偵』『両刃の斧』ほか。『雪冤』『テミスの求刑』『獄の棘』など映像化作品も多数。

〈「きらら」2020年3月号掲載〉
本の妖精 夫久山徳三郎 Book.68
古矢永塔子『七度笑えば、恋の味』