高山羽根子さん『如何様』
「太陽の側の島」で林芙美子文学賞を受賞、昨年は「居た場所」と「カム・ギャザー・ラウンド・ピープル」が芥川賞候補となるなど、注目される作家、高山羽根子さん。新作『如何様』の表題作は、戦後に別人のようになって復員した男をめぐる物語。その成り立ちにはさまざまな要素があって……。
戦後と紙幣と人と人との関係と
戦後まもない頃。〈わたし〉は美術系出版社の榎田から、水彩画家の平泉貫一について調べてほしいと頼まれる。大戦末期に出征した彼は、終戦後に復員した時、人相がすっかり変わっていたという。榎田は別人のなりすましを疑っている様子だ。現在貫一はふっつりと姿を消してしまったとのことで、〈わたし〉は貫一の妻、タエに会いにいく。高山羽根子さんの新作『如何様』の表題作は、本物か偽物かを決定づけるものがあるのか、というテーマを突き付けてくる内容だが、出発点はまた違うところにあったようだ。
「以前『小説トリッパー』に『オブジェクタム』という短篇でテーマにした祖父の時代の感覚や、キーとして出した紙幣というものを、また別の方向で書けないかと思っていました。同じ媒体で中篇を書くことになった時に、それを書いてみることにしたんです」
というように、本作でも紙幣が出てくる非常に印象的な場面がある。もともとモノとしての紙幣に興味があったそうで、
「紙幣は時代によってちょっとずつ変わっていますよね。戦後は紙幣の肖像に軍人を描くことは避けられていたし、聖徳太子だったり文化人だったり経済人だったりと、時代によって違いがある。それに、それほど遠くない未来、電子化が進んで今ほど紙幣を手にすることがなくなっていくと思うんです」
もうひとつ、祖父の時代の感覚ということに関しては、
「『太陽の側の島』(『オブジェクタム』収録)もそうでしたが、明治から昭和初期の手触りの文章が好きということもあります。それに、私自身は戦争を経験しているわけではないのですが、シベリアから帰ってきた近所のおじいちゃんがいたり、中学生くらいまでは町に傷痍軍人が道に座っていたりする姿を見た記憶がある。でも、今の若い人たちはそうした経験がないし、インターネットでも戦争について本当か嘘か分からないことが流布している。そうしたなかで、自分の言葉で、地面に足のついた人間たちの考えを書きたいと思いました」
そこから復員した男が別人か否かという題材が浮かんできたのは、
「戦後の混乱した時期は、戦地から戻ってきたりこなかったりする人がいるなかで、入れ違いも起きていた。詐欺みたいに入れかわる人もいますが、そうじゃないケースもあったようです。三浦英之さんの『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』という本に、印象的なエピソードがあって。戦後、満州からすぐに帰らなくてはいけない人と特に急いでいない人が証明書を交換して入れ替わって、先に帰る権利を譲っていたというんです。それを読んだこともひとつの出発点でした」
画家だった貫一は従軍画家にはなれず、ただし戦地でもその才能を活かした任務についていたようだ。そして戦後も……。
「自分自身が大学で日本画を専攻していたものですから、日本画家たちが従軍画家になってナショナリズムをもり立てる立ち位置にあったことや、戦後はどういうふうになったのかも、考えてしまうんですよね。そうしたことも含めて、自分の中で考えていたことを、ちょっとずつコラージュしていって、出来上がった作品です」
証言者たちと思考実験
〈わたし〉は貫一と親交のあった人間たちを訪ねて話を訊いてまわるが、みな言うことはそれぞれ違う。
「証言する人たちも、戦後の貫一を本物と信じている人か偽物と思っている人かに分けられるわけではないんですよね。タエさんなんかは徹頭徹尾、〝どっちでもいい〟という立場。目の前にあるものを受け止めるという強さと魅力がある。主人公の〈わたし〉は最初は本物か偽物か興味が多少あるんですけれど、どんどんタエさんに引きずられていく。後半のその様子は、自分の中では怖いなという気持ちで書いていました」
戦前はほとんど貫一と顔を合わせないまま結婚したとはいえ、タエの泰然とした態度は印象的。〈わたし〉が彼女にひきつけられるのも納得できる。
「これは関係性の物語でもありますよね。〈わたし〉とタエさんという、育った場所も考え方も違う人間同士が関係性を持った時のやりとりを丁寧に書こうという気持ちがありました。主人公たちの影を強く書くというよりも、相手を見ている、その視線を主人公にするような気持ちでした」
また、毎回創作の際に試みているのが思考実験だという。
「今回は、ドナルド・デヴィッドソンが考えたスワンプマン(泥人形)の哲学の思考実験が頭にありました。簡単に説明すると、外見も中味もその人と同じだけど泥でできたものを、その人と見なすことができるのかというものです。他にも、A、B、Cの人物が全員、悪くも見え悪くなくも見えるなかで、一番悪い人は誰か、といったことを考えるのが好きで、アイデアの中に組み込むことはあります。ただ、正解は誰かということは決めずに、みんなそれぞれ事情があるという書き方をしています」
今回もまさに、復員した貫一は本物か偽物か、話を聞かせてくれた人たちはみな正直か否かということを考えさせるわけだが、
「証言する人たちについては、思考実験として、こういう考え方を持っている人のことを好きになるだろうか、嫌いになるだろうかと考えながら書きました。一人一人が違うことを言うので『藪の中』を想像される方も多いはず。A氏いわく、B氏いわく……と、ちょっとずつ違った貫一さんの外側が語られますが、どの人の言うことも一理ある。でも、どの人にも倫理観のゆらぎはあって、誰が悪者で誰がいい人だということにならないように考えました。そのなかで主人公もおかしくなっていくように、逆算的に外堀を作っていった形です」
バラバラな証言から少しずつ、(本物か偽物か分からないが)貫一像が見えてくるが、
「絵を描く時などは、もののアウトライン(輪郭)は存在していなくて、まわりがあって、境目は人が表現するために便宜上線を引いていると思うんです。それと同じで小説を書く時も、まわりの世界を克明に丁寧に書くことで、そのもの自体を表現することができると思い込んでいるところがありますね。書かれた要素のなかから何を拾うかは、読む人に楽しんでもらえばいいかなと。そのぶん、書くほうは、なるべく誠実に書かなければならない。どれを拾っても何かの物語になるように書けばいい、という気持ちでどの作品も書いています」
その要素がちりばめられているのが、大判のスケッチブックだ。高山さんは小説創作の際にまず、その見開きに思いついたことを書き留めた付箋などのメモ、写真などを貼り付けていきながら整理していく。
「短い小説は勢いで書いてしまうこともありますが、ある程度の長さがあるものは、メモの切り貼りをしないと整理がつかないんです。それを見ながら、時系列はこうしようとか、このエピソードのほうが大事かなと貼り替えたりして考えていきます。一覧できる大きさのスケッチブックでないと整理できないので、持ち歩けない(笑)。切り貼りの作業の段階は家でやって、ノートパソコンでの作業になると喫茶店など外で仕事したりはします」
実際にスケッチブックを見せてもらうと、実にたくさんのメモが貼り付けられている。そこから複雑な要素が詰まった小説が生み出されているわけだ。
「何を読み取るかは読者の自由ですが、それと読者の方に努力を強いるというのは同義ではないです。ちょっとずつ読んでも、表面的に読んでも、深く読んでも面白いものであるようにと思っています」
戦後の貫一の仕事、作中に何度も出てくる坂の描写、人が蛇に呑まれたというエピソード、髭ダンスの場面──深く読めば細部まですべてが、テーマに繋がっていくように配慮されている。さらっと読んでも楽しめるが、どの角度からどう読んで深読みできるかもまた醍醐味だ。
本作の中には、複製についての印象的な言葉もたくさん登場する。象徴的に登場する紙幣というものも、いってみれば複製品である。
「たとえば一万円札の原版は一万円以上かけて作られているだろうけれど、それでモノは買えず、大量に複製されてはじめて価値が生じますよね。紙幣は複製される本物。タエさんが紙幣を絵として眺めている場面は、複製されている本物を見ていることを象徴的に描きたかった、というのがあります」
一般的に模倣というと否定的な意味合いが含まれることも多いが、
「データでテキストや動画がやりとりされる今の時代、複製が不可能という状態になることってまずない。ヴァルター・ベンヤミンの評論などもありますが、複製技術が発達した時代の倫理の変化については、自分でも考えます。今後も倫理観は変わっていくと思うので、また別の形でリトールドするかもしれません」
ユーモラスな併録作
収録されているもう一篇、『ラピード・レチェ』は、どこかの国で、駅伝を広めようとする女性の、奇妙でユーモラスな話。
「これは短い話のなかに断片をたくさん重ねていきました。駅伝を海外の人にどう説明するかとか、日本の原風景みたいな郊外の畑のある風景のなかにIKEAの青い建物があって、その中で誰かが生活しているような空間があって、どの家具にも聞いたこともないような名前がついていることとか、海外では牛乳がペットボトルに入って売られていることとか……。そうした、少し奇妙に感じてメモしていたことをぎゅっと詰め込みました」
独自の発想と着眼と文章力で魅了する高山さん。ここ最近は多忙な様子だが、
「筆が速いほうではないのですが、書かせていただく場があるなら書いていきたいです」
『新潮』三月号に新作中篇が掲載され、また、春には池澤春奈さんとの共著で台湾旅行の本が出る予定だ。
朝日新聞出版