源流の人 第9回 ◇ 三納寛之 (和菓子職人)
はかない四季の彩りを手の平から伝統を咀嚼した技術で精緻に再現
孤高の和菓子職人が発信する未知の味わいと宝石のような美の世界
SNSに商品をあげるや否や完売! しかも「食べるのがもったいない」と賞賛される若き伝道師の辿ってきた道とは。
水色、緑、黄、橙、桃色、紫──。淡い色彩の練り切り餡がグラデーションを描きながら、一つの円をなしていく。その丸い餡を、こんどは白く薄い練り切りが、優しく包み込む。そして表面には幾重にも連なる彫りが精緻に施され始める。そうしてできあがった、息をのむように美麗な和菓子には「宵花火」という名が付けられている。
その名の通り、夏空に咲く花火のように彩り豊かで、そしてなんとも儚い「宵花火」。考案した三納寛之は、和菓子の全国コンテストで数々の優秀賞に輝き、欧州や中国にも活躍の場を広げる気鋭の和菓子職人だ。「暖簾が命」と言われる和菓子業界にあって、異色のフリーランスとして活動している。
「宵花火」は三納の代表作として知られる逸品だ。今取材の撮影時、彼は、練り切りの形状をヘラで細かく整えながら、こう語り出した。
「和菓子特有の伝統技法『包みぼかし』を用いているんです。こうやってヘラと押し棒を操って、包みの中の色が透けるように、にじみ出るように見せていくんです」
古代にまでルーツを遡れるのが和菓子の世界だ。「茶の湯」の広まった室町期と、戦乱のない江戸期にそれは飛躍的に開花していった。京菓子と江戸の上菓子が競うように技を磨き、全国津々浦々の城下町、門前町でも、趣向を凝らした和菓子が生まれていった。
ひるがえって現代。四季折々の銘菓が各地にあることは知ってはいるものの、どこか私たち──とりわけ「茶の心」を知らぬ者にとっては、いささか遠い存在であることは否めない。洋菓子の手軽さ、煌びやかさ、バターなどを使ったコクのある風味に比べると、どうしても和菓子には地味な印象を抱きがちだ。
だが、三納の紡ぎ出す和菓子の世界を一度知れば、その先入観は根本から覆されるはずだ。雪だるま、春を告げる鶯、まるで本物かと見まがうばかりの蜜柑──。ためしに彼の名前をネット検索してみると良い。SNS上に彼が作品の画像を投稿するたびに、若い世代を中心に爆発的に拡散され、世界じゅうから「いいね!」の嵐が吹き荒れている。
「ずっと眺めていたい!」
「食べるのがもったいない!」
「この繊細さは、和菓子にしかないものだ」
彼の作品の魅力は海外にも波及し、コロナ前までは、各国でデモンストレーション活動も精力的に行っていた。今も、特定の店舗を持たない三納が新作の販売をネット上で告知すれば、ものの一、二分で予定総数に達し、完売となる。
修業の日々で摑んだもの
三納は、愛知県瀬戸市で二代続く和菓子店に生まれた。幼き日々のことを彼は笑って振り返る。
「父は中日ドラゴンズのファンで、とても短気でした。晩飯の時に、ドラゴンズが負けると機嫌が悪くなる(笑)。僕も自分を守る術として、周りの大人の顔色を窺う行為が染みついてしまいました」
大きくなったら何になるんや。実家の店を訪れる大人たちに尋ねられるたび、いつしか三納少年は、こう答えていた。
「おまんじゅう屋さんになる」
そうすれば、だいたい皆が笑顔になってくれることを知ったのだった。三納は言う。
「大学や専門学校に行くという選択肢は最初からなかったです。家業はそんなに儲からない。学費を払ってもらえる環境ではなかった」
愛知県内の老舗和菓子店に就職し、二人いる職人のもとで、全国から志を同じにする修業生たちと共に、住み込みでの生活が始まった。午前六時に起き、眠い目をこすりながら数分後には開店準備に取り掛かる。店内の掃除、下準備。午前七時頃にやってくる師匠が即座に仕事に取り掛かれるように、気を引き締めた。菓子を蒸し、できたものをビニール包装していく。夜までひたすら働いた。
「まるで家族のように大事に育ててもらいました」
週一日の休日には、京都など各地へ出掛け、名の知れた老舗和菓子店やデパ地下を回り続けた。
「職人の家に生まれたのに、この業界のことをほとんど知らずに飛び込んでしまったので、外の技術も見てみたかったんです。そうしないと、修業している店の良さが分からないと思いましたから」
それぞれの名店の長所、美点に触れ、自らが学ぶ店の魅力を俯瞰してみる。こうして三納は師匠の技と心を、立体的に、そして客観的に掴んでいったのだった。
辿り着いた答えは「個人スタイル」
修業を終え、実家に戻った三納だったが、変わらず父親は現役で、店の第一線に立っている。職人は足りていた。そこでもう少し、外の世界で見聞を深めようと思い立った三納は、岐阜県内の和菓子店の工場に入社した。かつての修業先や、実家とは異なり、機械を使って大量生産し、社員を大勢抱える企業だった。ここで十年以上、三納は工場長を任され、勤め人としての日々を送る。
「和菓子業界といっても、経営のやり方は色々あるのだと知りました。まったく違うタイプ。業界に対する視野が広がりました」
作業工程の画一化、経営ノウハウ、売り上げの店舗別の差──。和菓子を「売っていく」上での現実的な知識を身に付けたいっぽうで、三納は「組織と自分」のことについて考えるようになっていく。このころには既に、各コンテストで目覚ましい成績を幾度となくおさめ、頭角を現していた。自信が漲っていた。しかしいくら新しい商品を開発しても、いくら売り上げを伸ばしても、その職人のことが一般に知られることはほとんどない。パティシエとは対極の世界であると知る。
「『一緒にお店をやろう』という、共同経営のお誘いもあったのですが、結局ご縁がなくて。お店を出そうと思っていろいろ考えました。ところが、いざ計算してみると、場所も設備もない。百円、二百円の菓子を売って家族を養い、何千万円の借金を返済していくって、ちょっと現実的ではないのかなって」
ふと周囲を見回してみると、資金繰りが悪化して店をたたむ若い同業者を多々、目にした。技術力がある者もいた。話を聞いてみると、皆、経営を健全に回そうとすればするほど、忙し過ぎて余裕がなくなってしまうという。三納は疑問に思った。
「子どもさんが風邪をひいても看病ができないほど忙しい。それなのに経営も苦しいって言うんです。『一体どういうこと?』って」
大量生産の同業他社は安価で流通させ、同じ土俵に立った場合は勝てっこない。そんな過酷な競争になど、巻き込まれたくない──。
考え抜いた挙句、辿り着いた答えは、「個人スタイルでいこう」。
インスタで美しさが認知された
日本和菓子界の重鎮的存在になっていた以前の師匠たちと共に三納は国内外でワークショップに出向き、好リアクションを得るようになっていった。フランスでは、和菓子を「アート」の概念で捉えているように感じた。ムッシュー(おじさん)が、何の変哲もない「おはぎ」を食べた瞬間、大感激をする。いっぽう、ドイツの子どもたちは、まるで粘土細工を眺めるように上生菓子を見つめていた。
「日本のお菓子って全然知られていない。そう痛感したんです。和菓子の可能性はすごくある。今から自分が発信できることは何だろう、って」それで三納が始めたのが、写真投稿SNS「Instagram」。自身のアカウントを開設し、自作の和菓子を投稿したところ、最初の投稿にたちまち三千を超える「いいね!」が付いた。フォロワーがみるみるうちに増えていき、海外からワークショップの誘いも舞い込むようになった。驚いたのはその年齢層だ。
三納は目を細めて言う。
「何しろ、若い人たちの反応が嬉しかった。今、僕のお客さんは若い人が多いんですけど、そういう人たちの反応が意外と良いことを初めて知りました。普段、振り向いてもらえないよう人たちだと思っていましたから、すごく嬉しかったです」
とかく、若い世代の人たちにとっては敷居が高い「と思っていた」和菓子だが、触れる機会が単に少なかっただけなのかもしれない。「被写体」として和菓子の美しさや魅力がダイレクトに伝わった時に、そう感じたのだった。三納は言う。
「和菓子が『非日常』という先入観が、どうしてもあったと思うんです。お客さんと話していて初めて気づいたんですけど、たとえば男性のかたで、家に帰ってケーキが置いてあっても驚かないけど、上生菓子が置いてあると『ちょっと、どうした?』って(笑)。それぐらい非日常のもの。もっといろいろな切り口があって良いかもしれないと思っていました」
注文を受けるや、菓子づくりに没頭し、全国へ冷凍配送する日々が始まった。名古屋市、岐阜県本巣市で実施している月三回の実地販売では、直接お客さんの笑顔を見られるのが何より嬉しい。三納は言う。
「見ても食べても笑顔になってもらいたい。それがすべてです。自分にしかできないものを表現できる場なので、それで喜ばせるということしか今は考えていない」
伝統文化にこだわらない
フリーランスで活動する三納は、和菓子業界のいわゆる「本流」には乗っていない。本来、上生菓子とは、茶の世界と共にあるものだ。茶の世界ではやはり「暖簾」がモノを言う風潮がある。
「僕がそれをやったところで、つくる菓子は均一化され、個性はそぎ落とされていく。お茶席とは関係ない人たちに響くお菓子をつくりたい」
勿論、完全に「本流」を断ち切ってしまう、ということを彼は言っているのではない。まず「変化球」で多くの人々に振り向いてもらい、和菓子の魅力を伝えていきたいのだ。
「『春告鳥』という作品に対し、『春告鳥って何?』というところから、『ああ、鶯ね』と、和の文化に興味がない人たちを振り向かせたいんです」
和菓子業界は、個人ではなく暖簾の文化。いっぽう、洋菓子業界はパティシエの顔が広く世間に知られている。
「もっと、個で目立つ存在がいても良いと思うんです。(洋菓子業界には)ジェラシーもあります。比較しちゃいけないけれども、洋菓子に見習わなければならないところもあると思っています」
「和」をベースとしつつ、大勢の人々をもっと振り向かせたい。その一心で、さまざまな試行錯誤も三納は重ねている。ヨーグルトやラズベリーを加えたり、レモンで酸味をつけたり、ライムで香りをつけたり──。
「古くからある伝統文化だけにこだわり、他の和菓子業界と同じことをやっていると、埋もれてしまう。僕は新しいものを取り入れて勝負していきたい」
グッチやシャネルがライバル
和菓子をつくるため身につけた技術に加え、職人に求められるのは、「美しいものを表現し続けること」。持続するのは困難で、感覚も年とともに変わっていくものであるはずだ。美的感覚を保ち、アップデートさせていくために心がけていることは何か。そう問いかけてみると、彼からはちょっと意外な言葉が返ってきた。
「雑誌『家庭画報』をよく見ます。写真、凄いですよね。中でも気にするのは、広告ページ。世界で一流の、グッチとかシャネルの広告ですね」
色使いやデザインを眺め、どうやって読者、見る者を振り向かせるのかを研究しているのだという。
「僕がなぜ、ここに目が留まったんだろうって。『凄い!』と思った点は何なのか。自分のなかで徹底的に考え、それをお菓子に落とし込んでいくんです」
自宅のある岐阜から、中部近隣の山や滝に出かけ、自然とたわむれることもある。二人の子どもと童心に返ることもある。そして、水草を育てている水槽を眺める瞬間を大切にしているという。
「偽物の自然。でも、生命の息吹みたいなものを感じます。周りの人たちを全力で喜ばせるように、これからも生きていきたい。自分にしかできないことを表現し、発信していきたい」
自らを育ててくれた師匠から言われた一言で、忘れられない言葉が三納にはある。それは、「深は新なり」という言葉だ。
「深いは、新しい。たとえば餡にしても、誰も突き詰められないところまで突き詰めて作り上げれば、それはまったく新しい、そいつにしかできないことだ、と」
何事も突き詰めていく。そうすれば、道は拓ける。そう信じ、三納は、両手の指に全霊を込めている。
三納寛之(さんのう・ひろゆき)
1982年、愛知県瀬戸市生まれ。2001年、地元高校を卒業後、愛知県の名店で基礎を学ぶ。2007年、製菓衛生師免許取得、活躍の場を岐阜県に移す。2009年、全国和菓子協会主催「選・和菓子職」で優秀和菓子職に認定される。2010年、全菓研連技術コンテストで銀賞を受賞。2011年、国家資格和菓子製造一級技能士に認定。全国菓子研究団体連合会技術コンテストで総合一位、グランプリを受賞。2015年、全菓研連技術コンテストで優秀技術賞を受賞。2016年、フランス・ドイツで和菓子セミナーを開催。2017年、中国で和菓子セミナーを開催。三重県で開催された「お伊勢さん菓子博」に工芸菓子作品「瑞翔彩花」を出品、優秀工芸賞を受賞。2019年、フリーの和菓子作家として独立。全国・海外で活躍の場を広げる。
(インタビュー/加賀直樹 写真/松田麻樹、三納寛之)
〈「本の窓」2021年2月号掲載〉