岸田奈美さん 第2回 インタビュー連載「私の本」vol.12
「この本のおかげで、いまの私がある」をテーマにお話を伺う連載「私の本」。初のエッセイ本が大注目の岸田奈美さんに、今回は小学校から中学時代に思い出深かった本をご紹介していただきます。とりわけ印象的だったのは、「愛」を描いた物語たち。
「好き」と言いあえることの幸せ
小さい頃の私は、とにかく父親に認められたいと思っている子供でした。父親も私のことをすごく好きでいてくれて、そんな父親が私に期待することが何かもわかっていましたね。
たとえば、「最近できためちゃめちゃいいとこ連れてったるわー」と言われて、「やった、USJやわ」と思って行ったら、関西学院大学の神戸三田キャンパスだったことがあって。そこにあるスペインの宗教的建築物が有名で、「お前もこんなキャンパスで勉強できたらいいなぁ」と、お父さんに言われたんです。子供だったから、どこがそんなにいいのかは全然わからなかったけれど、お父さんは建築関係の仕事をしていたので、「そうやね、こんなとこで勉強できたらいいなぁ」って返事したら、むっちゃ嬉しそうな顔してて(笑)。
お父さんは古いレトロな物件をリノベーションして、オシャレな内装に仕上げるベンチャー企業を立ち上げていたんです。当時はまだ不動産業界がリノベーションをやっていない時期だったから、業界では有名人で、テレビにも出演していました。
子供ながらにそれはわかっていたので、お父さんに褒められたら私も天才になれるんじゃないかとか、それがわかる自分がちょっと誇らしい思いもあったりして。
自分が好きな人のために、好きな方法で喜ばせたいという想いは子供の頃からありました。自分が「好き」って言って、向こうにも「好き」って言ってもらえることが、こんなに嬉しいことなのか、というのはその頃から実感していました。
お父さんは仕事がすごく楽しそうで、大学で講師をしたり、ドイツなんかの外国に行って古い建築物を生かす手法について学んだり。楽しすぎて、仕事しすぎて、それで亡くなってしまったんですよ。
ダウン症の弟との日々
弟に知的障害があると聞かされたのは、弟が小学校に入学するときでした。私が小学3年生の最後の頃に、「実は弟に障害がある」と言われたんです。そういえば話すのが遅いな、とは感じていたけれど、まさか障害があるとは思ってなくて。障害という概念すらよくわかってなかったんです。
でもなぜかそのとき、泣いたんですよ。治らないというのはかわいそうだな、と思って。でも翌日弟を見たら、いつもながらめっちゃ楽しそうで、ひとりでレゴしたり、踊ったりしていて。私は弟をかわいそうだと感じたことは1度もなかったから、なんかおかしいな、別にかわいそうじゃないよな、と思い直したんです。その頃は弟のほうが私より人に好かれるし、褒められる機会も多かったこともあって。
それなのに学校の担任の先生が、「奈美ちゃんには障害のある弟がいて、毎日すごく大変だから、お姉ちゃんが安心できるように、弟さんが入学したらみんなで面倒見てあげましょう」と言ったんですね。そのとき、私、めっちゃ怒って。顔が真っ赤になるくらい、キレたんですよ。それは自分が惨めとかではなくて、弟を侮辱された気分になったから。
弟は全然かわいそうじゃないし、むしろ私よりめちゃくちゃいい人だし、そんな大事な弟を、かわいそうだからみんなで面倒見ようと言われたことがたまらなく嫌だったんです。その出来事を家に帰ってお母さんに話したら、渡してくれたのが『わたしたちのトビアス 障害者を理解する本』でした。
この本はダウン症の弟との日々を、姉と兄がそのまま日記に書いていたものです。障害理解とか、障害があってかわいそうとか、大人が子供に身につけさせたい道徳とか、そういうことはまったく書いてなくて。ただフラットに、こんなところがよくて、ここはちょっと困ってる、でも総じて毎日楽しいよ、という感じなんです。
これを読んだときに、初めて私が弟に対する感情と同じことが書かれていると思えました。これを私は伝えたかったのに、言葉にできずにただ先生に怒ってしまったというのを反省して、翌日、この本を学校に持っていきました。
そのこともあったのか、弟が入学したときは、先生からもほかの子と同じように普通に扱われていました。自然に友達もできたし、給食当番もやったり、わからないところがあれば勉強も教えてもらったりして、過ごしていましたね。
いまだ輝くアニメの最高峰「ドラえもん」
お母さんは弟に「ありがとう」「ごめんなさい」「こんにちは」だけは言えるようにと3つの言葉を徹底して教えたんです。
子供って、「ありがとう」が聞きたくて行動することがすごく多くて、弟が「ありがとう」と言うから、みんなが助けてくれていました。「こんにちは」と道行く人に言うと、嫌な気持ちになる人はいないので、近所の人も弟のことを気にかけてくれるようになったり。「ごめんなさい」は、わからないことが多いから、やはりどうしても人に迷惑をかけてしまうので、そのときに言えるように、と。この3つの言葉で、弟は私がいなくても学校で過ごせるようになったんです。
本の思い出でいうと、小学生の頃は「ドラえもん」がもう大好きでした。あそこには愛のすべてが入っていると思います。登場人物全員に欠点があって、でもその欠点すらも愛しさに変えているという感じで。
「のび太くん、だめじゃん」「自分の力でやってみようという心がけは立派だ」「失敗してもいいさ」と言いつつもドラえもんは見放さないし、ひどい人格否定もしないし、いつも愛に溢れている。とはいえ、あったかい目で見守ろうとしながらもドラえもんもそこまで大人になり切れないところもあったり。でも、のび太と一緒に過ごすなかで、ドラえもんもまた成長しているんですよね。この関係性がすごく好きなんです。
その頃はアニメ以外、テレビはほとんど観ませんでした。一方向の関係であるテレビよりは、会話ができるチャットのほうが好きで。アニメを観ている人たちの掲示板で、話をしたりすることのほうが多かったんです。
身近な人のために物語を紡ぐ
中学生になると、アニメの二次創作をネットで発表し始めます。夢小説とか、BL小説とか、私も趣味で書いて公開していたんです。
いま思えば痛いオタク的な感じもありました。これはわたしの周りの子もそうだったんですけどなぜか『不思議の国のアリス』にハマるんですよ。ゴスロリが流行った時代でもあったので、ちょっとダークな世界観、ファンタジックな世界観が好きで。
当時の私にとっては、憧れのちょっと不思議な物語という感じでしかありませんでしたが、『不思議の国のアリス』は、ルイス・キャロルが親戚の子供たちを笑わせるために作った想像の話だと、あとになって知りました。自分の身近な人を元気にしたり、笑わせたりするために物語を作るという、それがすごくいいことだなと感じて。
たぶん白ウサギも誰かしらモデルがいたというか、それくらいぶっ飛んだおじさんがいたのではと思うんです。でもそれをそのまま伝えても面白くないから、身近な人に元気になってもらうために、自分の体験をもとに、面白いことを書いた。それって、ものすごく尊いことだなと思います。
いま私は自分のためにエッセイを書いていて、結果的に「救われた」とか「面白かった」と言ってもらうこともありますけれど、いつかは、自分の愛する人や大事な人のために、一から物語を作れる人になれればな、と思っているんです。
実はいま、それに挑戦していて。私の家族をモデルに、子供向けのフィクションを書いています。子供向けだとあまり複雑な展開を書いてもわからないし、一言でばしっと心に残るメッセージが必要になってくる。シンプルな物語は逆にごまかしがきかないから、すごく大変ですけれど、いいものにできればと考えています。
(次回へつづきます)
(取材・構成/鳥海美奈子 撮影/藤岡雅樹)
岸田奈美(きしだ・なみ)
1991年生まれ、神戸市出身、関西学院大学人間福祉学部社会起業学科卒業。「バリアをバリューにする」株式会社ミライロで広報部長をつとめたのち、2020年4月作家として独立。自称「100文字で済むことを2000文字で伝える作家」。彼女のまわりでは、「一生に一度しか起こらないような出来事が、なぜだか何度も起きてしまう」。