▽▷△超短編!大どんでん返しExcellent▼▶︎▲ 木爾チレン「つまらない夫が死んだ」

「超短編!大どんでん返し」第4話

 つまらない夫が死んだ。結婚して、十年目の朝だった。

「行ってきます」とベッドの中で虚ろに聴いた声が、最後になった。私は、行ってらっしゃいも言わなかった。夜遅くまでネットフリックスのドラマを見ていたから、まだ眠っていたかった。

 搬送された病院から、事故に遭ったのだという連絡があったのは、その二時間後だった。現場に居合わせた人によると、トラックに轢かれそうになっていた三毛猫を庇い、ほとんど即死だったそうだ。

 霊安室に安置された夫の身体は、目を背けたくなるような状態だった。けれど、手だけは生きているみたいにきれいだった。そっと、触れてみた。夫の手は常から冷たかったけれど、その手は氷よりも冷たく感じた。

 損傷が激しいため、通夜は行わず、翌日に葬儀を開くことになった。

 やらなければならない手続きで、私はくたくたになった。

 すべての用事と、連絡が終わったときには、すっかり真夜中だった。疲れているはずなのに、ベッドに入っても、寝付けなかった。お腹が空いているのだと気が付いた。そういえば何も食べていなかった。

 台所に立ち、用意していた具材でカレーを作った。千二百円もした牛肉は柔らかく、前日から仕込んでいた飴色玉ねぎがルーに溶け込んで、最高に美味しくできた。カレーの日、夫は喜んだ。私が料理下手だったからだろう。だから週に一度は、カレーを作った。

 再びベッドに横たわり、目を瞑った。枕元の時計の音が、やけに煩い。結局、一睡もできないまま、葬儀に向かった。事故死ということもあり、葬儀は親族で済ませた。柩で眠る夫には、終始白い布が被せられていたから、誰も納得のいくお別れはできなかった。

 顔を見ないまま、骨になったせいだろうか。私は夫の顔を、もううまく思い出せなかった。

 夫とは、派遣先の会社で出会った。私は、長年付き合っていた彼氏に振られたばかりで、ずっと男子校で、大学も工学部だった夫は、いい歳をして交際経験がなかった。失恋を紛らわすように、デートに誘った。夫は酷く緊張していて、生まれたての雛みたいに、私の後をついてきた。それが可笑しくて、付き合いはじめた。前の彼氏ほど、好きにはなれなかった。でも私は、もう傷つきたくなかったのだろう。浮気される心配のない真面目な性格に惹かれ、結婚した。

 夫は、非の打ちどころがないほど誠実だった。言い変えれば、本当につまらない人だった。無趣味で、友人もおらず、休日もずっと家にいた。受け身で、滅多に自分からは話しかけてくれず、話しかけても、アンドロイドのように決まった返事をした。勿論、旅行を計画してくれたことも、誕生日にサプライズをしてくれたこともない。

 SNSに、旧友のきらびやかな人生が流れてくるたび、私は病むようになった。

 毎日がつまらなかった。

〈幸せになりたい〉

 夫が死ぬ二日前、他人しかいないタイムラインに、そう呟いていたほどに。

  

 葬儀の一週間後、夫の部下が、線香をあげにきた。

「本当に良くしてもらっていて。こんなにはやく亡くなってしまうなんて、残念です」

 夫は私の三つ上で、今年、四十一歳になる予定だった。

「あの、事故とお聞きしたのですが、どのような……すみません、気になって」

「猫を庇って、トラックに撥ねられたんです。いつもこの辺を散歩している猫でした」

「そう……だったんですね。猫は苦手だと仰っていたのですが、本当に優しい人だったから」

「はい。本当に、優しさだけが取り柄の人でした」

「えっと、それで猫は、無事だったんですか」

「ええ、昨日も気持ちよさそうに毛繕いしているのを、見かけました」

「それは、よかった」

 よかった、と、私も思っている。

  

 気が付けば、夫が死んで、一カ月が経っていた。

 ダイニングテーブルには、ラップに包まれたままのハムサンドが置かれている。毎朝夫が、私の分も作ってくれていた。あの日、起きてからすぐ病院へ駆け付けたから、食べることができなかった。

 手に取ってラップを外す。全体に、救いようのないほど黴が生えている。

 深く息を吐いてから、一口、齧った。

 言うまでもなく、食べてはいけない味がした。吐き出すと同時に、涙がこみ上げてくる。

「ねえ、この映画、話題らしいの。週末、観に行かない?」

「うん、行こう」

 夫はいつも、私の後をついてきた。

「駅前にパン屋さんが出来てね、クロワッサンが美味しいんだって。だけど、いつも売り切れていて」

「じゃあ明日、朝一で買ってくるよ」

 付き合い始めた頃と変わらず、優しかった。

「結婚記念日だから、千二百円もしたお肉使っちゃった。カレー、美味しくできたかな」

「最高に美味しいよ」

 夫に出会った日から、私は孤独を忘れていた。

「ほら見て。あの三毛猫ちゃん、毎日あそこで日向ぼっこしているんだよ」

「可愛いね」

「うん、可愛い」

 どうして私は、あの日々を、つまらないと思っていたのだろう。

「猫が苦手なんて、知らなかったよ」

 返事はない。笑いかけてくれることも、ハムサンドを作ってくれることも、二度とない。

 夫が死んだ二日前、幸せになりたいと呟いていた私は、もう充分、幸せだった。

 


木爾チレン(きな・ちれん)
1987年生まれ。京都府京都市出身。2009年「溶けたらしぼんだ。」で第9回女による女のためのR-18文学賞優秀賞を受賞。12年『静電気と、未夜子の無意識。』でデビュー。一般文芸のほか、ライトノベル、児童書等のジャンルでも活躍。著書に『みんな蛍を殺したかった』『私はだんだん氷になった』『そして花子は過去になる』『神に愛されていた』などがある。

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