▽▷△超短編!大どんでん返しExcellent▼▶︎▲ 五十嵐律人「黒の残響」
これは、僕が黒猫を迎え入れるまでの話である。
クロと出会ったのは、マンションのゴミ集積所だった。うだるような暑さで背中から汗が噴き出し、積み上がったゴミ袋からも不快な匂いが漂っていた。
そこにクロはいた。大学の人間関係に悩み、隣の部屋の住人の騒音にも苦しめられていた僕は、威風堂々たる佇まいに、真っ黒な身体に、見惚れてしまった。
しばらく眺めていると、クロは僕の近くに寄ってきた。お腹が空いているのかもしれない。そう思った僕は、部屋に戻って牛乳をボウルに注いだ。何が好物なのかわからなかったけれど、クロは美味しそうに飲み干した。
おかわりを求めるような鳴き声が可愛くて、牛乳パックを部屋から持ってきて注ぎ足した。途中でゴミ集積場の前を通った隣人が、僕とクロを見て舌打ちをした。
このマンションはペット不可物件なのに、隣人は無断で猫を飼っている。ドタドタと部屋を走り回る音や、鳴き声が聞こえてくるので間違いない。
管理会社を通じて苦情を申し入れたが、猫なんて飼っていないと隣人は否定したらしく、調査は保留になっている。そこで、言い逃れる余地をなくすために、ICレコーダーを通販で購入して、鳴き声を録音することにした。
クロと出会ったことで、朝の早起きが苦にならなくなった。
午前八時頃にクロは現れて、僕を見ると近寄って来た。餌も与えたし、僕から話しかけることもあった。もちろん、鳴き声しか返ってこなかったけれど。
無事にICレコーダーで隣人の賃貸借契約違反の証拠を手に入れて、管理会社に提供した。僕は法学部生なので、法律の知識はそれなりに身につけている。
管理会社の担当者も重い腰を上げて、隣人に警告文書を送り付けた。
その結果、問題の隣人は、一か月以内に部屋を出ていくことになったらしい。それまでは猫の騒音に耐えてほしい。そう担当者に頼み込まれて、渋々受け入れた。
大学で仲違いしていた友人とも和解して、全てのトラブルが解決に向かい始めた。クロが幸運の女神だったのかもしれない。そんなことを本気で考えた。
だが、幸せな時間は長く続かなかった。
クロが隣人に殺されたのだ。殺虫剤入りの餌を用いて、無惨に命を奪った。
大学から帰宅すると、ゴミ集積所の片隅でクロが死んでいた。嘔吐した形跡があったが、何が起きたのか理解できなかった。
現実を受け入れられず、僕はクロを両手で抱き上げた。
「そんな汚いものを、よく手で持てるな」
ニタニタと笑いながら、隣人が近づいてきた。右手に殺虫剤の空き箱を持っている――。こいつが、クロを殺したんだ。
どうして……、こんなことを。
「はっ、駆除しただけだよ。他の住民も、俺に感謝するはずだ」
人間ではなくとも、かけがえのない命を奪ったのだ。絶対に、正当な報いを受けさせる。クロの死骸を部屋に持っていき、ネットで必要な情報を調べた。
まず思いついたのが、動物愛護管理法だった。しかし、隣人の非道な行為は、動物愛護管理法では処罰できないことがわかった。
諦めきれず、他の法律が適用されないか必死に探した。
そして、ようやく見つけた。命は平等なのだと、理不尽に奪われていい命など存在しないのだと、法律が認めてくれた気がした。
すぐに警察に行って、僕は事情を話した。クロの死骸を見せて、解剖すれば殺虫剤の痕跡が残っているはずだと訴えた。
だが、警官は不快そうに眉を潜めた。
「ゴミを漁って、殺虫剤を食べただけじゃないの?」
殺虫剤の空き箱を隣人が持っていたんです。あいつを逮捕してください――。
「君が見聞きした情報だけだと、証拠にならないよ。それに、あまり言いたくないけどさ、いちいち問題にするようなことじゃないでしょ」
耳を疑った。なぜ、そんな酷いことが言えるのか。
クロは、必死に生きていた。ゴミ集積所にいたのも、食べ物を探していたからだろう。
もう一度、僕は警官に頼んだ。
隣人を、鳥獣保護管理法 違反で、処罰してほしいと。
「話は聞いたから、もう帰りなさい。さっきから、クロ、クロって言ってるけど、名前までつけてたの?」
――カラスなんかに。そう警官は続けた。
『動物愛護管理法』は、愛護動物の殺傷を禁止している。猫は保護の対象だが、カラスは愛護動物に含まれていない。なぜ、生き物の価値を人間が決めるのか。
無許可での野生鳥獣の殺傷を禁止している『鳥獣保護管理法』を見つけたとき、これなら隣人を処罰できると思った。
それなのに。クロは……、カラスは、死してなお疎まれるのか。
クロの死骸を山中に埋めて、僕は部屋に戻った。
ベランダで煙草を吸っていると、猫の鳴き声が聞こえてきた。身を乗り出して隣の部屋を覗き込むと、黒猫が前足を窓ガラスに擦りつけている。
手すりを伝って隣の部屋に行く。窓ガラスに手をかけると、鍵がかかっていなかった。
みゃあと黒猫が鳴いた。クロと同じ真っ黒な身体。愛護動物として守られた存在。
隣人が、引っ越しを承諾してまで手放さなかったペット。
あいつに、ペットを愛でる資格なんかない――。
そして僕は、黒猫を家に迎え入れた。
五十嵐律人(いがらし・りつと)
1990年岩手県生まれ。東北大学法学部卒業。弁護士(ベリーベスト法律事務所、第一東京弁護士会)。『法廷遊戯』で第62回メフィスト賞を受賞しデビュー。著書に『不可逆少年』『原因において自由な物語』『六法推理』『幻告』がある。最新刊は『魔女の原罪』。