「推してけ！ 推してけ！」第20回 ◆『宙ごはん』（町田そのこ・著）
評者=堀井美香
（フリーアナウンサー）
その一皿に、自分の心までほどかれていく。
最近の私は料理に無頓着だ。今日のポトフも適当な材料を鍋に放り込んだだけ。いや、最近に限った話ではない。仕事と子育てで忙しかった頃は、母として手作りの料理を食べさせているという既成事実が大事だった。いつもせわしなく済ませる食事の中で、手作りという名前だけの抑揚のない料理を子供に押し付けていたのかもしれない。
果たして子供達の食卓の記憶の中に、色や匂いや温かさはあるのだろうか。もう子供達も独り立ちしていて今更だけれど、申し訳なかったと思ったりもする。
本書は主人公の宙が、周りの人々との関わりの中で、一皿の料理に心がほどかれ、大切な人に料理を作り、料理でつながりながら成長していく物語だ。
宙にとって産みの母である花野は、「現実と離れた雰囲気を持つ不思議な人」。それが育ての母である風海のもとを離れ、花野と暮らしていくうちに彼女が母として不完全であり、宙の思い描く愛情を注げない人なのだと気づいていく。大人になれば誰もが、完全な親など存在しないとわかるのだが、小さな宙が母親のぬくもりを見失った時、どれほどつらく悲しいことだっただろうか。大きな声ではなく膝を抱えて声を殺すように泣くのは、花野に面倒な子だと思われないように。たくさんの我慢を重ねたのは、小さいながら母のことを理解しようとしてきたから。花野との間に誤解があったとしても健気に大人であろうとする宙に涙が出る。
足がもつれて転び、寝巻きのズボンが破れるくらい、泣いて走り続け一人途方に暮れる宙を救ったのは料理人の佐伯。そして佐伯に見守られ教えてもらいながら、宙は初めて料理をする。私はこの場面が大好きだ。まだ心では泣いている宙が、恐る恐る卵を割って、粉を混ぜる。新しい扉を開いていくような料理の作業の一つ一つに、少しずつ心をほどいていく宙。優しく甘い黄色と、雲のように白くふわふわしたメレンゲを無心で混ぜる間に、宙の哀しみはだんだんと穏やかに静かに変化していく。完成したパンケーキは黄金色で雲を入れたかのように口の中ですっと溶けて消える。風海が家族や宙のために焼いてくれた懐かしい魔法のパンケーキを思い出し、弱い自分に戻りながらも感情を喉奥に押し戻す。佐伯が新しいパンケーキを盛り、たっぷりとイチゴジャムを添える。佐伯の優しさを受け取り、また小さな希望をもらう。
パンケーキを作り口に入れるまでのプロセスで、小さな宙の感情が幾重にも重なっていった時間。そして大切な人の「おいしい」の一言に宙自身が料理という魔法にかけられたシーンでもあり、料理が宙の味方についた瞬間でもある。
周りの人に料理を教えてもらい成長していく宙。一方の花野は料理をする娘を見て一枚一枚気持ちを剥がしていく。娘が母のために削る鰹節。宙が丁寧に取る鰹出汁からは琥珀色の芳しい香りが弾ける。そのお出汁を母は最後までちゃんと飲み干す。鰹出汁の匂いが私の嗅覚にも届いてくるような場面。この時二人の関係性は、まだ透き通るように薄くふわふわとした花鰹のようなものだったかもしれないが、こうやって何かの苦しみが訪れるたびに二人は料理を間にしてほころんでいく。異なる存在だった二人が、何かをのみこんで受け入れていく時間経過が、読んでいる者にその時々の料理とともに心にゆっくりと染み込んでくるのだ。
本書では幾つかの温かいスープも出てくる。かぼちゃをベースにしたスープ、きのこのスープ、ミネストローネ。そのどれもが、「人をいたわり包む」料理でありそして温かい。宙の周りの人々はそれらのスープを一口、口に運んで傷を癒し、誰かを許し、少しの希望を手にする。
温かい料理は言葉より雄弁だ。娘が就職試験で悩んでいた時、息子が受験でつらかった時、私にできるのは温かい料理を用意することだった。温かい料理は人をほどく。そして温かい料理に人は泣く。本の中に登場する人々が温かいスープを飲む場面に、読んでいる自分自身の胸のつかえも取れ、生かされる気がする。様々な料理の中に色と匂いと温かさがしっかりと存在している本なのだ。
人間は脆弱である、一人では幸せになれない。色々な背景はすべて置き去りにして、一皿の料理に心を預けた時、人は他者を許し、共にいる幸せを感じるのかもしれない。
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『宙ごはん』
著／町田そのこ
堀井美香（ほりい・みか）
1972年秋田県生まれ。法政大学法学部卒。ＴＢＳに入社し、ナレーションやラジオのパーソナリティなど幅広く活躍。2022年３月、同局を退社後は、朗読会を自身で企画するなど活動の場を広げている。著書に『音読教室』がある。
〈「STORY BOX」2022年7月号掲載予定〉
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