「推してけ! 推してけ!」第26回 ◆『十二月の辞書』(早瀬 耕・著)

「推してけ! 推してけ!」第26回 ◆『十二月の辞書』(早瀬 耕・著)

評者=池澤春菜 
(声優)

水晶の明晰さと透徹性を持ち、時間をかけて育つ物語


 水晶のようだ。

 ゆっくりと、物語は育つ。1992年にデビューし、この30年で、これが6冊目。寡作と言ってもいいかもしれない。ただ、早瀬さんの物語は時間をかけて育つ。水晶の明晰さと透徹性を持ち、二つとない結晶として生まれてくるのだ。氷だったら数時間で作られるかもしれない。けれど、やがて溶けてしまう氷と違い、水晶はいつまでも読んだ者の心の中に残る。

 早瀬さんにしか書けない美しさ、透徹さを、わたしは愛している。

『十二月の辞書』は、2018年6月号の「SFマガジン」に掲載された同名の短編を長編化したものとなる。デビュー作『グリフォンズ・ガーデン』、そして短編集『プラネタリウムの外側』と同じ世界を舞台とした連作だ。前作を読んでいなくとも話はわかるけれど、念のため少しだけ振り返りを。

 わたしはSFとは世界にifを導入することだと思っている。猫形ロボットが存在する、というif。1952年アメリカに隕石が落ちる、というif。自己増殖する横浜駅に支配された日本、というif。

 この作品群を、SFたらしめているのは、有機素子コンピュータの存在だ。今でも粘菌を使った計算機やデオキシリボ核酸を利用したバイオコンピュータ自体はあるけれど、実用化にはほど遠い。それが稼働し、チューリングテストをクリアするレベルで自然な会話をこなし、果ては現実を改編する力まで有している。わたしたちのよく知る現実に挿入された、このifが物語を支えている。

『十二月の辞書』は短編「プラネタリウムの外側」と「忘却のワクチン」の間の話になる。

 北海道大学工学部に在籍する南雲と同僚は、大学の有する有機素子コンピュータの中に会話システムを構築し、出会い系サービスをこっそり営んでいる。だがその同僚は「そこは設定していない」という言葉を残して、突然死した。南雲は有機素子コンピュータの中に、ナチュラルという同僚の人格を模した会話プログラムを作った。

 同じ頃、元恋人を電車事故で失った佐伯衣理奈は、その死の真相を知りたいと研究室を訪れる。

 有機素子コンピュータには実質上のメモリの制限がない。世界を丸ごと作りあげることも、その中に亡くなった人や仮想人格を住まわせることもできる。コンピュータの中に作りあげた世界と現実は何度も交差し、そしてその境は曖昧になっていく。

 本書でもそうだ。絵に描かれたもの。フィルムに収められたもの。誰かの目に映った姿。深島桜が言った「同じ日本語を話していても、経験の多寡や語彙力によって、ミルフィーユと呼ぶ人もいますし、南雲さんのように気取ってミルフイユと呼ぶこともあります」、人は言葉でも違うレイヤーで世界を見ている。時にそれは交わり、時に背きあい、目眩のように見え方が変わる。

 早瀬さんは『プラネタリウムの外側』に関してインタビューの中で「『グリフォンズ・ガーデン』と同じという意味では、『不確かさ』を大事にしました。飛行機が乱気流に入ったり、ジェットコースターが頂点から落ちる、あのふわったとした瞬間を、表現したい。足元がぐらつくというか、例えば止まっているエスカレーターを上がっていくとき、何ともいえない奇妙な感じがありますよね。確かさの揺らぐ、あの感覚を小説で伝えたいです」と答えている。

 本書もそうだと思う。読んでいるうちに世界が揺らぐ、異なる視線で世界を眺めていることに気づく。もしかしたら水晶を眺めている、と思っている自分こそが水晶の中にいるのかもしれない。

 この限りなく透明な水晶の中からの景色を、ぜひ見て欲しい。本を読み終わったとき、あなたがよく知っている景色もまた少しだけ変わって見えると思う。

 おまけ:読んでいてあれ? と思ったのだけど、もしかしたら『プラネタリウムの外側』にリセの本名が出ているかも。南雲が自転車を走らせた駅は、どうやら岩見沢市の南にあるよう。該当する町を地図で調べたら、佐伯が「ヨシヒト?」と読み間違えている名前が見つかった。興味のある方は Google マップで調べてみて。

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十二月の辞書

『十二月の辞書』
著/早瀬 耕


池澤春菜(いけざわ・はるな)
1975年生まれ。ギリシャ・アテネ出身。声優・エッセイスト。日本SF作家クラブ会長。著書に『乙女の読書道』『台湾市場あちこち散歩』、対談集に『ぜんぶ本の話』など。

〈「STORY BOX」2022年12月号掲載〉

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