吉川トリコ「じぶんごととする」 1.「自分事」なんて言葉は存在しない?
エッセイを書くならまみさんのように書きたいといつのころからか思うようになった。まみさんのような鋭さも知性もやさしさも胆力も私にはないけれど、憧れに近づこうと手をのばすように、バトンをつなぐようにエッセイを書いていきたいと思っている。どこかで見聞きしたようなうわべだけの「赤裸々なホンネ」ではなく、自分にしか獲得できない自分だけの言葉で書くこと。
五年前に流産をしたとき、病院のベッドでひたすらネットの流産の体験記を読んだ。そのどれもが悲しみを切実に訴えるもので胸に迫ってはきたが、「これは私の話じゃない」という違和感のほうが強かった。流産という経験を語る言葉が画一的に塗りつぶされていて、へたなことを言うと薄情だとかひとでなしだとか思われるのではないかという恐れはあったが、もっと率直に、自分自身の言葉で語りたい、流産をじぶんごととして書きたい、とそのとき思った。まみさんのエッセイを読んでいなかったら、そんなふうには思わなかったかもしれない──なんて、いくらなんでもロマンティシズムがすぎるかもしれないけど。
そうして書いたエッセイが賞をもらったりして、一冊にまとまったのが『おんなのじかん』である。「女」という性をどうサバイブしてきたか、流産や不妊治療やダイエットなどさまざまな経験をとおして感じたことを綴った本なのだが、エッセイを刊行するなんておそらくこれが最初で最後だろうと思い、あれもこれもと詰め込みすぎて結果的に「俺の半生記」のようになってしまった。
『おんなのじかん』
吉川トリコ
新潮社
期せずして『女子をこじらせて』とよく似たコンセプトになってしまったわけだけど、思春期からわりと素直に「女子」を謳歌していた私の書くものは、当然ながらまったく様相がちがう。まみさんがいうところの「普通の女のコ」の側から見た世界の話といっていいかもしれない。激烈な『女子をこじらせて』に対し、どこまでもぬるま湯な『おんなのじかん』、機会があれば同時代を生きた女たちそれぞれのフィールドワークの成果を、二冊合わせて読んでもらえれば幸甚である。
そんなわけで、「自分事」という言葉もひっくるめてじぶんごととするエッセイを、これから書いていこうと思います。この連載がうまくいけば、二冊目のエッセイが刊行されたりするかもしれなかったりするような気がしないでもなかったりする。
連載をはじめるにあたって担当(か)氏になにかテーマを投げてくれと依頼したら、速攻で「酒」と返ってきた。いちばんに返ってくるのがそれかよ!?と思ったが、編集者からのリクエストということであればしかたがないので次回は「酒」について書きます。