吉川トリコ「じぶんごととする」 1.「自分事」なんて言葉は存在しない?
作家・吉川トリコさんが自身の座標を定めてきた、あるいはこれから定めようとするために読んだ本を紹介するエッセイです。
この二、三年ぐらいでよく目にするようになった「自分事」という言葉になんだかとても引っかかる、と担当(か)氏は言った。諸説あるがおそらくは「他人事」に対する言葉として若い人のあいだで使われるようになったのだろう。作家から送られてくる原稿でも最近よく見かけるのだが、そのたびに為念を入れると、ほとんどの人が「我がことのように」「自分のことのように」といった言葉に置き換えるそうだ(※為念というのは、「別にこのままでも問題ないけれど、正しいかどうかでいったら微妙なところなので、念のためもう一度ご確認ください」という意味の校正用語。ちなみに私はこれが入るとだいたいの場合、動揺する)。
インスタなんかを見ていると、「やむおえない」「耳障りがいい」なんて表記を見るのは日常茶飯事だし、「確信犯」「敷居が高い」など時代とともに誤用の意味合いのほうが圧倒的シェアを誇るようになった言葉もある。いちいち目くじらを立てて取り締まっていたらきりがない。自分だっていつなんどき間違いを犯すかわからないので、言葉は生き物、時代によって変わっていくものだと大らかにかまえてはいる。それでもやっぱり、どうしてもなんだか、気になるよねええええというようなことを、日本酒をぐいぐい飲みながら(か)氏と話した。
「だってさー、そんなこといったらほとんどすべてのことが〝自分事〟じゃん」
ビジネスの場などで「私事」という言葉が使われるのは、それが異例のことであり、その場にふさわしくないという意味合いが多分に含まれているからだろう。ひるがえってプライベートの場面では、自分が所持し経験し知覚し思考しているものほとんどすべてが「自分事」なのだから、わざわざそんな言葉が生まれる必要も必然もなかったのではないか、言葉というのは異例なものほど有徴化し周縁に追いやるものだから——というのがこのとき私が持ち出した屁理屈だったが、いまから思えば酔っぱらっててきとうに難癖をつけたかっただけかもしれない(THE LOW&GAi)。
しらふの頭で落ち着いて考えてみると、シンパシーではなくエンパシーが求められるようになったいまの時代に、「自分事」という言葉が自然発生的に生まれてきたのはなんだかとても象徴的に思える。累計百万部を超えるベストセラーとなったブレイディみかこさんの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を読んで「エンパシー」という言葉を知ったという人も多いだろうが、まさに私もそのクチである。「シンパシー」も「エンパシー」もざっくり「共感」と訳されがちだけれど、「シンパシー」が同情や憐れみのような情緒的な感情の動きを指しているのに対し、「エンパシー」はもう少しドライというか、感情を動かさなくとも相手の立場に立って相手を理解しようとする認知能力だと私はとらえている。そう、つまり「じぶんごととする」ってこと。
いまだかつてないほど複雑で困難な世界に我々は生きている。日々見聞きするニュースやSNSからの情報すべてを「自分事」としてとらえていたら、どんなに図太く健やかな人でもまいってしまうぐらいには混沌としていてやりきれないことばかりだ。
それでも可能なかぎり、自分が崩れない範囲で、なんとか「じぶんごととする」をやっていきたいと私は思っている。そのためには正しい知識と情報をなるべく広く追いかけ続けることが肝要である。インターネットでインスタントに得られる情報だけでは偏りも生じるし、陰謀論やらデマやらなんやらの危険がつきまとう。いまどきは書店で売っている書籍すら怪しいものが多い。「本に書いてあることはすべて正しい」と思い込んで育った人間としては、足元が揺らぐような危機的状況である(——と思ったけど、よくよく考えれば昔からトンデモ本や奇書のたぐいはふつうに書店に流通していましたね……)。
こんなふうに書いてしまうと、社会派で硬派なエッセイの連載がはじまるのかと思われそうだが、もちろんそんなことはないのでご安心を。毎回、数冊の本を紹介しつつ、その本がどのように私の座標を定めてきたか、もしくは、いまだどっしりした座標を持てないままいかに日々ぐらぐらしているかについての読書エッセイというのがさしあたっての見通しである。