ニホンゴ「再定義」 最終回「自己責任論」

ニホンゴ「再定義」最終回


 先述したあれこれやその周辺事案(いじめ自殺問題やネット誹謗中傷問題など)を踏まえると、生贄処刑システム的な要素も含め、21世紀における(主としてネット由来の)社会道義的な議論の背景には、国や文化を超えていわゆるムラ社会的な価値観が強化されながら遍在しているように感じられる。ひと昔ふた昔前はそうでもなかった。当時はたとえば、書物も含めたマスコミがワンランク上の汎人類的ポジティブ理性を「こうあるべき」と皆に吹き込む力が強かった。今はそうでもない。人間に潜在するネガティブで身近な公平・公正観がネットを通じて効果的に連携し合い、巨大化しやすいのだ。実際、旧来的なポジティブ理性の喧伝にダマされた! と感じている人も少なくない。このような状況下、高度な理性は「意識高い系www」と嘲られやすく不利となり、逆に「目には目を、歯には歯を」「十倍返しだ!」的な本能・感情にもとづく復讐系の道理が優勢となる。

 この状況で興味深いのは、ネットで大いに煽られるムラ社会的な観点や価値観には、明確で具体的な中心というか教祖というか震源にあたる存在が往々にして見当たらないことだ。なのに、指揮統率があるかのごとくけっこう巧みに戦闘が行われる。トランプやプーチンのような存在を「教祖」に当てはめる思考もあるだろうが、あれはシンボルであって根源ではない。

 この現象はいったい何なのか。「ムラ社会の掟」的なものは存外詳細な形で人間の本能にプログラミングされているのか。つまりある種の元型(アーキタイプ)のようなものであり、それがネット化によって表に引き出され、ゆえに人々は明文化されていない「ムラ社会の掟」に従うことが可能になった、といえるのか。

 数千年にわたり人類が知力というか表層意識で編み出してきた「高級理性」がさりげなく根本的に無効化され、本能にもとづく野性のルールが巧みに高度化しながらそれを上書きする時代がやってきたのかもしれない。これは、A・C・クラークの『幼年期の終わり』の駄目バージョンみたいな人類進化の文脈として興味深い。いや進化ではなく「巧妙化しながらの退化」「戦略的退化」「極大適応」というべきか。悪夢的状況の表現にはいろいろな言霊が当てはまりそうで、よくない意味で萌えさせてくれる。

 にしても、このネガティブ文脈では「巧妙化しながら」という点が重要だ。「罪」概念のハンドリングにより、自己責任論は来るべき高度本能システム社会を強力に支える観念的デバイスとして、巨大ムラ社会的な未来で大いに再評価されるだろう。その時間線ではおそらく自己責任による「自業自得」認定が、人間の精神的破滅の主因となるだろうからだ。そして誰が自己責任論の発明者だったのかの研究が行われ、太古の2ちゃんねるのどこかのスレッドの魚拓でそれが特定されて、妙に賞賛されたりするのかもしれない。

 ということはつまり、もし集合的欲求がそれを指向するならば、いずれ「ナチの皮を被っていない」深層ナチ的な概念の再構築と普及も容易に可能と思われる。なぜならムラ社会ルール言論の刃は何故か権力筋には向かわず「非権力的な異物」っぽいものに向かい、そして「異物が異物化したのは異物自身による自己責任であり、自業自得である!」という理屈で敵視と攻撃を正当化し、その「祭り」から自身の活力を得て賑わい続けるからだ。どこまでも果てしなく。

(連載は今回で終わりです。ご愛読ありがとうございました)


マライ・メントライン
翻訳者・通訳者・エッセイスト。ドイツ最北部の町キール出身。2度の留学を経て、2008年より日本在住。ドイツ放送局のプロデューサーも務めながらウェブでも情報発信と多方面に活躍。著書に『ドイツ語エッセイ 笑うときにも真面目なんです』。

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