前川仁之『逃亡の書 西へ東へ道つなぎ』
アース・シェアリングに向けて
スペイン南部アンダルシア州の州都セビーリャから十五キロあまり下ったところにコリア・デル・リオという町がある。スペイン語で日本を意味する「ハポン」姓を持つ者が大勢いることで有名な町だ。
ハポン姓の起源はかれこれ四百年も前に伊達政宗がスペインに派遣した慶長遣欧使節団にある。その細かい任務は略すとして、帰国の段になっても現地にとどまる者が若干名出た。その人たちの子孫がハポンを名乗るようになった、という次第だ。
私がこの町を訪れたのは七年前の夏のことだった。
拙著『逃亡の書 西へ東へ道つなぎ』(小学館)でもこの旅の一部を描いたが、移動手段は自転車で、南フランスからスペインのアンダルシア州を経てフェリーでモロッコに渡り、迷宮都市として名高いフェズを目指す、真夏には過酷な行程だった。亡命者や難民、土地を追われた人々の足跡をたどる旅で、たとえばアンダルシアから地中海を渡りモロッコのフェズへ、というのは五世紀も前にカトリックのスペインから追放されたユダヤ人やイスラム教徒の多くが旅した道なのである。
摂氏五十二℃に達する猛暑と現地の水にやられながらも旅を続け、フェズにたどり着いた。そこで二日過ごし、さて今度は北上して憧れのジブラルタル海峡を渡り、再びスペインに入る。留学経験のあるスペインは、第二の母国のようなものだ。初めてのイスラム教国から戻ってきた時の安心感といったらたとえようもない。ところがこの時はモチベーションの空白地帯が胸中にぽっかり広がり、その後考えていたアンダルシア州の残りの行程案にすっかり興味を失ってしまったのである。中心街のバルではスペインをほめそやし、移民街にとった安宿では女将さんとモロッコを懐かしむ、という浮気な夜を過ごした。
その時になって初めて、あのハポンさんが多く住まうというコリア・デル・リオに行きたくなったのは、我ながら興味深い心情の変化だった。やや誇張になるかもしれないが、異郷にあって自分のルーツの痕跡を探りたいという、亡命者の心境に近づいていたのだろう。
二日間走ってそのコリア・デル・リオにたどり着くと、グァダルキビル川の船着き場に面した公園の看板には「カルロス・デ・メサ公園」と日本語も併記されているではないか。最初に出会った男性に名前を訊ねると、さっそくハポンさんだ。バルに入って土地の人々とおしゃべりすれば、「アセクラ(支倉の現地読み)」や「センダイ」といった固有名詞の認知度がこの町だけ異様に高いことがわかる。三・一一の復興支援歌『花は咲く』を日本語で歌える人もいる。
感動した私はきわめて率直に、バルで並んで飲んでいた女性に訊いたものだ。
「もしも日本が他国に侵略されて、多くの人が国外に逃げ出す事態になったら、この町では受け入れてくれる?」と。
「もちろん、わたしたちはなんの問題もないわ」彼女も真顔で、即答した。
慶長遣欧使節団は伊達政宗にわずか十石の新領地さえもたらさなかったかもしれないが、四百年後の日本の旅人を歓迎してくれる人々へと縁をつないでくれた。コリア・デル・リオの人々はその縁に恃んで、「なんの問題もないわ」と日本難民を―もちろんそんなものが発生しないのがベストだが―受け入れてくれるかもしれない。国家の決定を介するまでもなく。
そして私たち一人ひとりの現在の行いが、こうした縁を作り得るのではないか。それは未来の誰かのための逃げ道を、生きる場を用意する。ゆくゆくはみなで文字通り地球を共有し合う、アース・シェアリングが普及し、戦争と、戦争の論理を組み伏せる。
『逃亡の書』はそんな祈りと展望とともに書かれた。
前川仁之(まえかわ・さねゆき)
1982年生まれ。県立浦和高校卒。東京大学理科Ⅰ類中退。人形劇団、施設警備など職を転々とした後、立教大学異文化コミュニケーション学部入学。在学中の2009年、スペインに留学。翌年夏、スペイン横断自転車旅行。大学卒業後、福島県郡山市で働いていた時に書いた作品が第12回開高健ノンフィクション賞の最終候補となる。以降、文筆業に専念。2015年春、韓国一周自転車旅行。本書『逃亡の書 西へ東へ道つなぎ』は3冊目の著書となる(非売品含む)。
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『逃亡の書 西へ東へ道つなぎ』
著/前川仁之