南 杏子『ヴァイタル・サイン』
追いつめられないでほしいから
主人公が女性医師でない物語を書いたのは初めてです。
医療現場で患者さんや家族に最も近い存在が看護師さん。命の最前線にいる緊張やストレスがあるにもかかわらず、決して逃げずに献身的で、共感力があり、いつも笑顔を見せてくれます。そんな姿がとても魅力的で、神々しさすら感じていました。
ところが、あり得ない事件が起きて驚きました。「点滴連続中毒死事件」――横浜市の病院で二〇一八年、看護師が入院患者を殺害したとして逮捕・起訴されました。点滴の中に消毒液を入れたというのです。事件はメディアに大きく取り上げられ、被害者は二十人以上にのぼるとも報じられました。一体何があったのか。それは他人事ではなく、深い原因が隠れているはず。容疑者の逮捕で終わりにしていい問題とは思えなかったのです。
医療の現場は、そんなに単純ではありません。将来に禍根を残さないためには、罪を犯した者を糾弾するだけで解決したつもりになるのは危険です。しっかりと問題の根っこを掘り下げたいと思いました。
小説にしようと思った一言があります。逮捕された看護師の供述とされる「自分の担当時間中に、患者さんに亡くなってほしくはなかった」という言葉でした。
小説は、実際の事件とは全く異なる病院が舞台ですし、登場人物にモデルはありません。けれど先ほどの一言から、彼女がどれほど追い詰められていたかを想像すると、強い胸の痛みを覚え、そこを作品の軸にすることにしました。
看護師として働く際の厳しい状況を描き出すためには、まず日常業務をできる限りリアルに描こうと努めました。それを知ってもらうことで、事件の理解がスタートすると思ったからです。
お読みいただくと、看護師たちの仕事の辛さから目を背けたくなる場面があるかもしれません。同じような状況なら、果たして自分は同じ考えから完全に無縁でいられたか。決して許されることではないけれど、他人事ではない。犯人は、自分と地続きの人間である――そんなことを読者の皆さんに感じていただければ幸いです。
看護師の仕事をしたことはありません。だからこそ誠実に書こうと努めました。誰かが追い詰められるとしたら、それは個人の問題だけでなく、社会構造の問題として解決しなければならないと思うからです。追い詰められそうになっている誰かの心に届けばとても嬉しいです。
誰もが追い詰められない社会になることを願いつつ。
南 杏子(みなみ・きょうこ)
1961年徳島県生まれ。日本女子大学卒。出版社勤務を経て、東海大学医学部に学士編入し、卒業後、慶応大学病院老年内科などで勤務する。2016年『サイレント・ブレス』でデビュー。他の著書に『ディア・ペイシェント』、『いのちの停車場』、『ブラックウェルに憧れて』などがある。
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『ヴァイタル・サイン』
著/南 杏子