夏川草介 特別読切「青空」

『コロナ』第1話読み切り


 一、 青空

 まっすぐな農道を疾走していた救急車が、ふいに速度を落とし始めた。

 後部座席に座っていた敷島寛治は、わずかに前のめりになりかけて、慌てて壁の手すりに手を伸ばした。ほとんど同時に、運転席から、歯切れの良い声が飛び込んでくる。

「信号よし!」

「信号、青確認よし」

「右折します、右よし、左よし!」

「左右よし、自転車注意しろ、左奥の歩道だ」

「自転車確認よし!」

 運転席と助手席に座る救急隊員たちの遣り取りだ。ハンドルを握るのが若手の隊員で、助手席で四方に注意をめぐらせているのが先輩格である。

 二人の声とともに救急車の大きな車体は、ゆっくりと交差点に進入し、右折していく。

 敷島は、手すりを握ったまま、遠心力にまかせて左の壁に身を預けた。

 目の前の、小さく開けてある窓の向こうを、淡く雪をかぶった北アルプスの起伏がゆっくりと移動していく。冬一月のさむざむとした稜線が、コマ送りの映画のように切り取られて流れていく。窓から流れ込んでくる冷たい風を受けて、額からぶら下げたフェイスシールドが、ふるえるように揺れた。

「お手数をおかけしますね、敷島先生」

 落ち着いたその声は、前部座席の救急隊員たちのものではなく、すぐそばから聞こえたものだ。敷島は、窓外から車内に視線を戻した。

 淡く光る壁のモニター、天井からぶらさがったいくつものチューブ、箱に押し込まれた点滴バッグや吸引器。それらの見慣れた救急車の中に、しかし見慣れない巨大なビニールの袋が横たわっている。

 声は袋の中からだ。

「すみませんね、世の中はまだお正月でしょう。今日ってたしか一月三日だったはずです」

「そうでしたか。そうだったかもしれません」

 敷島は淡々と応じる。愛想が乏しいのは、もともとの敷島の寡黙な性格もさることながら、年末からまともな休みをとれていないためである。もはや日付の感覚というものがなくなりつつある。

 敷島はシートから軽く身を乗り出して、巨大なビニール袋を覗き込んだ。

「それより具合は大丈夫ですか、平岡さん」

「具合は何ともないですが、なんか、ガラス張りの棺桶にでも入れられた気分ですよ」

 半透明の袋の中で横たわったまま笑ったのは、酸素マスクをつけた中年の男性である。

 男の名前は平岡大悟、五十八歳、病名は新型コロナウイルス感染症。呼吸状態の悪化のために専門病院へ搬送している最中だ。

「今しばらくの我慢です。向こうの病院に到着したらすぐ出られます」

「でも棺桶から出ても、またそのまま隔離病棟でしょう。こいつは本当に厄介な病気ですなぁ」

 笑った患者に対して、医者の側は控え目にうなずいただけであった。

 平岡の入っている袋はアイソレーターといって、頭側のダクトから外気を取り込んでそのまま救急車の外に排気できる特殊な袋である。患者の吐き出した空気は車内に出ることなく、フィルターを介して直接車外に放出される。要するに患者から、周囲の人への飛沫感染を防ぐ装置だ。袋には外から何本もチューブがつながっているが、内側にも、袋越しに外から処置ができるように青いビニール手袋がいくつもぶらさがっている。平岡の言うとおり、棺桶の印象が強いうえ、ぶらさがったいくつもの手袋が一層不気味な景色を作り出している。

「段差です、減速します」

 ふいに運転席の救急隊員の声が響いた。

 わずかに遅れて、車体が上下に大きく振動した。

「揺れてすみません、先生。大丈夫ですか」

 助手席から振り返った救急隊員の姿に、敷島は黙ってうなずいた。普段なら愛想笑いのひとつも添えて隊員に礼を言うのだが、今日はとてもそんな気分にはなれない。救急隊員たちは頭から真っ白な防護服を着て、ゴーグルの向こうに目だけを光らせているのだ。何度見ても見慣れるものではない。

 ……異様なのはお互い様か。

 敷島は、ちょうど向かいの壁に設置されていた小さな鏡に目を向けた。彼自身もまた、同じ白ずくめの防護服なのである。

 全身白ずくめで目だけを光らせた三人の男たちが、ビニールの棺桶を運んでいる。

 なにか、出来の悪いホラー映画の一場面のようだが、当事者たる敷島は当然笑えない。

「そんなに悪いんですかね。俺はなんともないんですよ」

 再び袋の中から平岡の声が聞こえた。

「この大げさな袋はまだわかりますが、酸素マスクなんて必要ですかね?」

 言いながら、平岡の右手が窮屈そうに動いて、自分の顔をおおう酸素マスクを持ち上げる。プラスチックのマスクを持ち上げた下には、普通の紙マスクがしてある。これも飛沫感染を少しでも防ぐための対策だ。

「ほら、取ってみてもなんともない」

 平岡の声が陽気に響く。

 マスクを持ち上げた右手の指先には、酸素濃度をはかるSpO₂モニターがついている。SpO₂モニターは、ピンポン玉程度の大きさの四角い機械で、指先を軽く挟むだけで血中の酸素濃度を測定することができる簡便で有用な医療器具だ。

 平岡の指につけたSpO₂モニターは、最初95%という数値を示していたが、酸素マスクをはずすと同時に、ゆっくりと下がり始めた。

 94、

 93、

 91……

 ビニール袋の向こうの平岡の笑顔はかわらない。咳も痰もないし、呼吸がはやくなる様子もない。

「一応つけておいてください、安全のためです」

 静かに敷島は答え、平岡は狭い袋の中で肩をすくめてから酸素マスクを顔に戻した。戻す直前には、89という赤い数値が光っていた。

 奇妙な肺炎だと、改めて敷島は思う。

 敷島は、十八年目の内科医である。専門は消化器だから、肺炎について詳しいわけではないが、常に第一線の臨床医であったから、多くの肺炎も治療してきている。その医師としての経験が敷島に告げている。

 この肺炎は、これまでとは違う……。

 多くの患者は、軽い風邪の症状で始まる。

 そして多くの患者は、数日の経過で改善する。何事もなかったかのように。  

 しかし、中には急激に呼吸状態が悪化してくる患者がある。断続的に発熱が続き、ふいに酸素濃度が下がってくる。発症してすぐとは限らない。大きな変化もなく数日が経過し、一見落ち着いているように見える患者の中に、突然こういう変化が起きることがある。

 どこが回復する患者と悪化する患者の分かれ目であるかがわからない。わからないこと以上に恐ろしいのは、酸素状態の悪化している患者の多くが、しばしば症状が目立たないということだ。

 普通、肺炎なら、咳が出る。痰が出る。ぜいぜいと荒い息をして、苦しいと訴える。ところが、新型コロナウイルス感染症では、酸素状態が悪化しているにもかかわらず、普通に歩いている患者がいる。目の前の平岡もそのひとりだ。

 平岡が発熱したのは五日前。軽い喉の痛みと熱だけであったが、それが改善せず、保健所に相談して敷島のいる信濃山病院の発熱外来を受診した。PCR検査で陽性が確認され、CTで淡い肺炎の影があったために隔離された感染症病棟に入院としたのだが、敷島としては、数日の経過観察で改善すると見込んでいた。しかし発熱は続き、昨夜から急激に酸素濃度が下がり始め、今朝方、酸素4Lを必要とする状態にまで進んだのである。

 敷島のいる信濃山病院は、地域で唯一の感染症指定医療機関だが、規模の小さな施設である。病床数は二百床に満たず、呼吸器や感染症の専門家はいない。重症患者の治療は困難であることから、市街地にある筑摩野中央医療センターへの搬送が決定したという経過であった。

 午前中に搬送を決断し、昼過ぎには搬送用の救急車が到着した。慌ただしく紹介状を用意し、防護服に身を包む敷島の視線の先で、平岡は自分の足で歩いてアイソレーターに入っていった。本当に搬送が必要なのか、敷島自身、迷いを覚えたほどだ。

「あと五分で到着です、先生」

 助手席の防護服が振り返って告げる。

 敷島はまた頷き、アイソレーターを覗き込んだ。

「あと五分だそうです、平岡さん」

「了解です。五分たったら、また別の病院の隔離病棟ってことですね。なるべく早く出られることを祈りますよ」

「前にもお話ししたように、コロナ肺炎は長引く人がいて、油断していると命にかかわります。しっかり治るまでは治療を受けてください」

「わかりました」

 笑顔で答えたタイミングで、平岡がふいに二度ほど大きな咳をした。咳の勢いで酸素マスクが大きくずれた。敷島は、ほとんど反射的に、小さく上半身を後ろに引いていた。

 患者はあくまでもアイソレーターの中だとわかっているのだが、一瞬背中に冷たいものが流れていく。

 神経質になりすぎている……。

 内心で笑い飛ばそうとして、ふいに脳裏に小学生になったばかりの娘と息子の笑顔が浮かんだ。二人とも最近口が達者になって、元気なさかりであるが、年末からはほとんど顔を見られていない。

 敷島はそっと手を伸ばして、わずかに開いていた救急車の窓を、全開にした。

  

 

夏川草介(なつかわ・そうすけ)
1978年大阪府生まれ。信州大学医学部卒。長野県にて地域医療に従事。2009年『神様のカルテ』で第十回小学館文庫小説賞を受賞しデビュー。同書は10年本屋大賞第2位となり、映画化された。他の著書に『本を守ろうとする猫の話』(米国、英国をふくめ20カ国以上での翻訳出版が決定)、『神様のカルテ2』(映画化 2011年本屋大賞第8位)、『神様のカルテ3』、『神様のカルテ0』『新章 神様のカルテ』『勿忘草の咲く町で 安曇野診療記』『始まりの木』がある。

 


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